山本悌二郎
山本 悌二郎(やまもと ていじろう、明治3年1月10日(1870年2月10日) - 昭和12年(1937年)12月14日)は、日本の政治家、実業家。農林大臣。外務大臣の有田八郎は弟。号は二峯。 来歴・人物新潟県佐渡郡(現・佐渡市)に、漢方医・山本桂の二男として生まれる。明治15年(1882年)に上京し、一時期二松学舎に在籍した後、獨逸学協会学校(現・獨協中学・高等学校)に転校しドイツ語を学ぶ。明治19年(1886年)に同校を卒業後、宮内省給費生としてドイツに留学し、経済学・農芸化学を学ぶ。明治27年(1894年)帰国後は宮内省御料局嘱託、第二高等学校教授、日本勧業銀行鑑定課長を経て、明治33年(1900年)台湾製糖(三井製糖の前身企業の一つ)設立に参画し常務取締役支配人となる。大正10年(1921年)社長に就任。 明治37年(1904年)、第9回衆議院議員総選挙に立憲政友会から旧新潟1区にて立候補し当選する。以後当選11回。政友会内で重鎮として重きをなし、10名程度の派閥を率いていた。昭和2年(1927年)に田中義一内閣で、また昭和6年(1931年)に犬養内閣で、それぞれ農林大臣として入閣する。2度目の入閣のときに農相秘書官を務めたのが、政界デビュー直前の河野一郎である。 国粋主義的な政治思想の持ち主で、晩年には国体明徴運動を熱心に推進していた。また大東文化協会副会頭、第五代会頭も務めた。 昭和12年(1937年)12月14日、大東文化協会玄関で倒れ、脳溢血のため死去、満67歳。墓所は多磨霊園(10-1-3-8)。 昭和の初期、佐渡の旧家にあった大島本源氏物語の売却に際し、前田米蔵、山東誠二郎とともに田中とみなる女性に紹介状を書き、売却を支援したことが知られる[1]。 別荘佐渡島南端の矢島にある悌二郎の別荘[2]。明治44年、悌二郎が東京から宮大工を呼んで3年をかけて建てられ、多種多様な建材や樹種が使用されていることが特徴。藤の間・千鳥の間・風呂場などがある。建材には、明治30年起こった佐渡広域の水害[3]の際に流れ出た流木や曲り木・千石船の舟板・皮付きの丸太など形や大きさがまちまちな物が使われており、また樹種についてもクロガキ・モチノキ・ネズミサシ・桜・すもも・ナツメなど様々な樹種が使用されている。天井材には矢島に自生していた矢竹が使われ、廊下の床はウグイス貼りになっている。 海岸の近くで波風の影響が強く朽ちかけていたが、島に所縁のある女性が令和5年からクラウドファンディング [4][5]などで資金を募り一部が修復され、令和6年4月から50年ぶりに一般公開が始まった[6][7]。本来の屋根は茅葺であるが損傷が激しく修復が必要であるが、費用と材料が必要なため一時的にトタンで覆って保護してある。 佐渡弥彦米山国定公園内・佐渡ジオパーク内にあるため家屋が崩壊すると再建は不可能である。 栄典脚注
関連項目外部リンク
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