日本の冠日本の冠(にほんのかんむり)は、公家や武家の成人男性が宮中へ参内などの際に頭に着用する被り物。黒い羅を漆で固めて作ったものが一般的だが、即位の礼や朝賀の儀の際に着用した礼冠と呼ばれる金属製の冠もあった。 近世まで日本では髻を結って冠を被る冠着(かむりぎ)の儀礼を以って、男性の成人式とした。「冠婚葬祭」の「冠」はこのことである。 この時、若者に冠をかぶせるのが「冠親」と呼ばれる後見人であり、近世において天皇の冠親は五摂家のうちどこかの当主が担当していた。 構成頭に被る部分と、巾子(こじ)と言って髷を納める部分、纓(えい)と言って背中にたらす長細い薄布の大きく三つの部分に分かれる。 細かく分ける場合、頭に被る部分の上部を額(ひたい)、縁を玉縁(たまべり/前面から側面を磯・後ろを海と呼ぶ)、巾子に、纓を入れる纓壺(えつぼ)、纓の根元にある纓壺に差し込む纓袖(えそで)、纓と呼び分ける。 付属品として、巾子の根元に掛ける上緒(あげお)と言う紐、髷を貫いて留めるための簪(かんざし)、武官が冠につける緌(糸偏に委/おいかけ・こゆるぎ/老懸とも)と言う馬の毛を扇形に束ねた紐付きの耳当てのようなものなどがあり、儀式によっては挿頭(かざし)と呼ぶ生花や造花を上緒に挟み込むこともある。 冠の区別少なくとも平安時代中期以降、日本の冠の形状は基本的に身分や年齢による大きな差異はない。 しかし、材質(五位以上は四菱紋)や額や纓の処理によって着用者の身分や年齢を示す。 巻纓
垂纓
御立纓
歴史『魏志倭人伝』には、倭国の男子は何もかぶらず、木綿 (ゆう)を頭に巻いているとの記述があり、弥生時代にはまだ冠はなく、鉢巻はあったと考えられている[2]。 古墳時代には、江田船山古墳や藤ノ木古墳など各地の古墳から金銅製の冠や冠帽が出土している。 公式に身分と冠が結び付けられたのは、603年制定の冠位十二階と呼ばれる制度であるが、この時点の冠は聖徳太子の妃の指導で製作されたといわれる「天寿国繡帳」などを見るに、絹製の帽子のようなもので色も官位に対応させて赤・青・黒・紫など六色の濃淡があった。 『日本書紀』天武天皇14年(685年)7月条に、新たに位階に対応した色別の朝服が導入されたことが記されている。このとき、冠は黒一色の漆紗冠に統一された[3]。 日本の冠の直接の祖先は、養老律令の衣服令(いぶくりょう)に見える朝服の被り物「頭巾(ときん)」であるとされる[4]。これは唐の常服に使用した幞頭と同じものである。 頭巾は黒い絹で出来た袋状のものの前後に合計四本の紐をつけた被り物で、巾子(こじ)と呼ぶ黒漆塗りの桐でできた筒で髻を覆った後で頭を覆うものである。ただし日本で出土品する巾子は、麻と思われる間のあいた平織の生地に漆をかけてメッシュ状にしたものである。 頭上で結ぶ前の紐を上緒(あげお)、後頭部で結ぶ後ろの紐を纓(えい)と呼んでいた。なお、唐では両者を「脚」と呼んでおり、纓は正式な冠の顎紐を意味した。 この時点では巾子と本体は別のものであり、纓は本体を固定する紐に過ぎない。 後に上緒は形骸化し纓は徐々に長くなり、巾子と本体は一体化するが、冠着という元服式のときのみ「放巾子(はなちこじ)」と言われる本体と巾子を別に作り、装着後に紐で結んで固定するものが使われた。 平安時代中期の摂関期ごろには冠は比較的現代の形に近いものへと代わっていたが、当時の冠は漆を薄く塗った柔らかなもので雨などにあうと簡単に型崩れしていたことが枕草子などの記述から分かる。 上緒は巾子の根元に掛けるだけの飾りになり笹紙(ささがみ)という和紙を裏から貼って痕跡を示すだけ、纓は羅を燕尾の形に垂らす飾り物に代わっていたため、簪というピンを巾子の根元から差し込んで髻を貫いて固定した。 平安時代末期の院政期には、漆を厚く塗って形が崩れない冠となり、纓が本体から分離して纓壺に纓を差し込んで固定するようになった。 京都全体を戦乱に巻き込んだ応仁の乱の影響で、日本の宮廷文化は混乱するが、このとき五位以上の貴族の冠に用いる有文羅(うもんら/模様を織り出した羅)の技法が散逸。以降、無地の羅に刺繡を加えて代用に当てた。 冠は元来柔らかいものであったから、纓で髻に固定したと思われるが、硬くなるとともに平安中期ころから簪で髻に固定するようになる。鎌倉時代には巾子が高くなり、大型化したことが『徒然草』に見えるが、室町時代になると一転、小型になっていったことが「足利義持像」(神護寺蔵)や「伝足利義政像」(東京国立博物館蔵)から知られる。それとともに懸緒という紐で固定することがはじまった。 纓の根は平安時代末期以降上がる傾向にあったが、ここに至って纓の先端が垂れずに頭上に上がったままの現在も天皇が被る御立纓(ごりゅうえい)の冠が登場した。江戸前期の霊元天皇の冠は江戸中期のものより心持ち大きく、形も柔らかい。江戸中期の桜町天皇の冠は極端に小型化し、額の立ち上がりも鋭角になる。この形式が幕末まで続いた。 明治以降、断髪の影響により冠は頭に被ることのできる大型のものとなる。また頭を覆うために暑気を抜くため、天皇の冠にはニ引きの透かしを、皇族および臣下は籠目の透かしを入れるようになった。 各要素の変遷懸緒について懸緒は鎌倉時代には蹴鞠の時に限って使用した。懸緒には馬の毛の紐や楽器の絃などが用いられたが、中でも紫の組紐である「紫組懸緒」が重視された。紫組懸緒は飛鳥井雅有の『内外三時抄』には飛鳥井家の家説と主張されており、二条家の『遊庭秘抄』によると二条家の家説と主張されている。『実隆公記』によれば室町後期には蹴鞠でないにもかかわらず、参内に組懸緒を用いる例が見られ、このころより簪は単なる飾りの管となって、通常も組懸を用いることが一般化した。 こうして懸緒は、室町中期には、和紙製の紙縒(こびねり)が正式で、束帯には必ずこれを用い、組懸(くみかけ。組懸緒の略称)は鞠の家の許可を得たもののみ略式に使われるようになった。 神社本庁系の神職の懸緒は白色の紙捻を使用する事になっているが、出雲大社の国造と管長は紫色を用いる[5]。 文様について元来五位以上の冠は羅であった。羅は菱の文様が織り出されたが、室町時代になると有文羅の織成技術が断絶した。その後は巾子に三つ盛りの俵菱、纓の先端近くに三つ盛りの一直線(カスミ)を縫うことがおこなわれた。また、喪中の無文冠と区別するために、六位以下もこれを用いた。 江戸中期に摂家主導で「繁文冠」が再興され、以前からの冠は遠文冠と呼ばれるようになった。繁文冠は、近衛・鷹司家が俵菱、九条・二条家が四つ目菱、一条家が四つ菱となる。摂家に従属する門流の堂上公家は、元服時に摂家の冠の拝領の形をとり(実際は自弁)同じ文様の冠を使用した。天皇の冠の文様は、冠親である五摂家いずれか固有のものを使うが、大正天皇以降は十六菊に固定されている。また即位礼では皇族は俵菱を使用、勅任・奏任官・高等官(奏任以上の待遇)は四つ目菱を使用し、判任官以下は遠文冠を用いた。大正五年以降、皇室成年式に下賜される「賜冠」は十六弁裏菊となったが、即位礼では皇族も俵菱を用いる。 江戸時代の武家では遠文冠が用いられたが、文政年間に徳川家が「かつみ」という文様を復興、宗家と御三家・御三卿が使用した。 戦前より、神職の菱の形式に指定は無いが、近年は四つ菱がほとんどである。 なお、纓は俵菱とかつみは横長、四つ目菱と四つ菱は縦長に配するのが江戸時代以来の伝統であるが、近年は四つ菱でも横長のものが多い。 特殊な着装通常、上皇・皇太子以下男性貴族は公的な場に冠・私的な場に烏帽子を対応する装束と共に使い分けていたが、天皇はその在位中常に冠を被って過ごしていた。神事や食事などの際は、長い纓が邪魔になるためそれぞれ特殊な手段で処理していた。
脚注
参考文献
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