木々高太郎
1897年〈明治30年〉5月6日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の大脳生理学者・小説家・詩人。医学博士。本名は (はやし たかし)。山梨県出身。 (きぎ たかたろう、1937年、直木賞受賞。主に推理小説・探偵小説で知られたほか、詩歌や評論も手掛けた。イワン・パブロフ門下の生理学者でもあり、母校の慶應義塾大学医学部で教鞭を執った。戦後はアメリカの穀物メジャーの支援を受けて小麦食を推奨し、「頭脳パン」、「米食低脳論」を提唱した。長男は医学博士で精神衛生学者の林峻一郎。 生涯出生から上京山梨県西山梨郡山城村下鍛冶屋(現・甲府市下鍛冶屋町)に生まれる[1]。生家は医家[1]。甲府市湯田町へ移り、甲府市立湯田尋常小学校へ通う。1910年(明治43年)、さらに東八代郡白井河原村(現・甲府市白井町)へと移り、山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)へ入学する[1]。中学時代は弁論部に所属し、同校の『校友会雑誌』へも散文・短歌を投稿している。 1915年(大正4年)に甲府中学校を卒業すると、詩人の福士幸次郎に師事して上京する[1]。金子光晴やサトウ・ハチローらとも親交を持ち、同人誌への投稿やドイツ詩の紹介を行う[1]。1915年には福士・江馬修・木村荘太が中心となり『白樺』の衛星誌である『LA TERRE』(ラ・テール、のち『ヒト』と改題)が創刊され、1916年(大正5年)9月刊行の第2巻第6号では「林髞」名義で木々の詩「寂しき微笑」が掲載されている[2]。 また、木々の慶應義塾大学医学部入学後の1922年(大正11年)1月には福士が編集委員、福士門人でもあった金子光晴が編集発行人を務める詩誌『楽園』が創刊され、同年3月刊行の第2号で木々は林家の先祖「林久策」のペンネームで訳詩・散文を発表している[3]。 大脳生理学者としての活動1918年(大正7年)には慶應義塾大学医学部予科に入学する[4]。1924年に同医学部を卒業し、慶應義塾大学生理学教室の助手となる[4]。1927年(昭和2年)には講師となり、生理学の講義を担当、1928年(昭和3年)に 慶應義塾大学より医学博士号を得る。博士論文は「神経刺激電流の滑走に就て」[5]。1929年(昭和4年)には助教授に昇進する[6]。 1932年(昭和7年)にソ連のレニングラード(ペテルブルク)へ留学し、翌年2月までイワン・パブロフのもとで条件反射学を研究する[4][7]。1933年(昭和8年)5月には帰国し[6]、帰国後は研究・教育活動の傍ら新聞への医学随筆の寄稿等も行い、1934年には科学知識普及会評議員となる。 探偵小説の発表と「探偵小説芸術論争」上記の通り科学知識普及会評議員となった木々は、同僚評議員であった海野十三を知る[8]。木々は海野や南沢十七の勧めもあり、「木々高太郎」の筆名で『新青年』11月号に短編探偵小説「網膜脈視症」を発表する[9]。これが木々の探偵作家としてのデビューとなり、以降、「睡り人形」「青色鞏膜」など『新青年』へ数々の短編を発表する[9]。 1934年から1935年(昭和10年)には、甲賀三郎が『新青年』及び『ぷろふいる』誌上において、本格的探偵小説の非芸術性を主張し、「本格探偵小説」は文学性よりも探偵的要素を重視したものであり、探偵趣味を含んだ「変格探偵小説」は「本格探偵小説」から区別されるべきものであるとする「探偵小説芸術論」を提唱した[9]。これに対して木々は、1936年(昭和11年)3月に『ぷろふいる』第4巻第3号において論説「愈々甲賀三郎氏に論戦」を発表、謎に対する論理的思索とそれによる謎の解決を探偵小説の要素であるとし、探偵小説の芸術性を主張した(探偵小説芸術論争)[9]。また、甲賀との論争を受けた1936年(昭和11年)には持説の「探偵小説芸術論」を実践した作品として、『新青年』に「人生の阿呆」を発表する[10]。 「シュピオ」創刊・直木賞受賞木々が甲賀三郎と論争を繰り広げた『ぷろふいる』は1933年5月から刊行されていた専門誌であるが、探偵小説界には別途古今荘・蘭郁二郎らの同人誌として1935年3月に刊行された『探偵文学』が存在していた[10]。1937年(昭和12年)1月には木々や海野十三・小栗虫太郎は探偵小説の専門誌として『探偵文学』を改題して『シュピオ』を創刊する[10]。「シュピオ」はロシア語で「探偵」を意味する「シュピオン」に由来する[10]。 木々らは『シュピオ』の紙面も一新し、小説理論の探求や新人の育成、専門的研究などを提言している[10]。 戦時中から戦後の活動1939年、雑誌「条件反射」を自費出版。1941年、研究動員を受け陸軍科学研究所嘱託となる。 1945年、林研究所を創設して所長となり、翌年には慶應義塾大学医学部教授となる。執筆活動も再開し、翌年には『推理小説叢書』を監修。ここで、のちに定着する「推理小説」という言葉を用いる。同年、「新月」で第1回探偵作家クラブ賞短篇賞受賞。翌年、「ロック」誌上で江戸川乱歩と論争。 1951年(昭和26年)には復刊された「三田文学」の編集委員となり、木々は同誌の表紙・裏表紙のデザインも手がけている[12]。松本清張は、同年3月に木々の推挽により三田文学に「記憶」を、さらに9月には「或る『小倉日記』伝」を発表している。 1952年(昭和27年)、田村良宏(後のSRの会会長、筆名河田陸村)らにより創設され、紀田順一郎・大伴昌司らも参加した、慶応義塾大学推理小説研究会の顧問となる。1953年には、江戸川乱歩、大下宇陀児のあとを引き継ぎ、日本探偵作家クラブ(現・日本推理作家協会)第3代会長となった。 1960年、『頭のよくなる本』で「頭脳パン」を提唱。米食を止め、パンを主食にするべきだと主張した(なお、この木々の主張の背景には、アメリカに本拠を置くいわゆる「穀物メジャー」からの強い働きかけ、さらには研究費の提供等があったことが現在では判明している)。 1963年(昭和38年)2月には同人誌「小説と詩の評論」の創刊を主宰し新人の育成にも携わり、自身も詩や評論を発表している[13]。1964年(昭和39年)に山梨県人会である山人会が発足すると、会員となる[13]。1965年(昭和40年)3月には慶応義塾大学を定年退職し、名誉教授となる。1967年(昭和42年)には第一詩集『渋面』を、1969年(昭和44年)には第二詩集『月光と蛾』を刊行する[13]。第三詩集の刊行も構想されていたが、未完に終わる[13]。1969年4月に入院し、同年10月31日に心筋梗塞のため聖路加国際病院で死去する[14]。72歳没。 家族
著作小説◎→大心池先生シリーズ □→志賀博士シリーズ 長編
作品集・代表的な短編・詩集
戯曲
合作評論
林髞名義
翻訳
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
|