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杉山祥子

杉山 祥子
Sachiko Sugiyama
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1979-10-19) 1979年10月19日(45歳)
出身地 日本の旗 静岡県駿東郡小山町
ラテン文字 Sachiko Sugiyama
身長 184cm
体重 66kg
血液型 O型
選手情報
愛称 スギ
ポジション MB
指高 242cm
利き手
スパイク 310cm
ブロック 300cm
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杉山 祥子(すぎやま さちこ、1979年10月19日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。2016年現在は札幌市在住。

来歴

静岡県駿東郡小山町出身。父は東レ九鱗会の元選手、母は高校時代に国体出場経験を持つというバレーボール一家の次女として生まれ[1]、小学校5年生の時にバレーボールを始める[2]静岡県富士見高校2年生時に春高バレー出場。1997年、全日本ジュニアのメンバーに選ばれ、世界ジュニア選手権に出場した。

1998年、NECレッドロケッツに入団。第5回Vリーグユニチカ・フェニックス戦でデビューし、同リーグの新人賞に輝いた。第6回Vリーグでは全勝優勝を果たす。2000年、全日本代表初選出。全日本の最年少メンバーとして、同年シドニーオリンピック世界最終予選に出場した。2001年グラチャンで銅メダルを獲得、2003年ワールドカップでもレギュラーとして活躍した。2004年、アテネオリンピック出場。2006年度より2008年度まで、NECの主将を務めた。

2007年4月、NECレッドロケッツ公式ホームページ上において、6歳年上の男性と結婚する事を発表。2007年5月13日に挙式を行った。同年9月のアジア選手権にて24年ぶりの優勝に貢献、2度目のワールドカップに出場した。

2008年、北京オリンピックに出場。

2013年1月13日、V・プレミアリーグ東レアローズ戦に出場し、Vリーグ歴代第1位となる329試合連続出場を達成した[3]

2013年4月8日、チーム公式サイトにて同年5月開催の第62回黒鷲旗大会をもって引退することを発表した[4]。その現役最後となる黒鷲旗大会で準優勝に貢献し、敢闘賞、ベスト6を獲得[5]。決勝でも、得意の移動攻撃や速攻を見せて、ブロックでも2得点し、チームに貢献した[6]

2018年11月1日に第一子(長男)を、2020年4月21日に第二子(長女)を出産して二児の母親となっている[7]

人物・エピソード

  • バレーボールを始めたきっかけは、友人が始めるというので一緒に始めようと思ったのがきっかけ。バレーボールを前面に出す家庭ではなかったという[2]
  • 小学生当時の作文で、「将来の夢はバレーボール選手になること。オリンピックに出場したい」と書いていたが、本人は失念していたという[2]
  • 中学時代、姉の影響で大手モデル事務所のオーディションを受け、合格した経験がある。
  • 中学時代は陸上部(専門は走り高跳び)とのかけもちで、通信陸上県大会(1994年)に出場して優勝している[2]
  • 絵が得意で、柳本晶一監督の誕生日ケーキに、下書き無しでクリームで監督の似顔絵を書き、関係者を驚かせた。
  • 北京オリンピック閉会式で、デビッド・ベッカムが蹴り上げたボールを取り損なった。
  • 2013年5月6日、現役最後の試合となった第62回黒鷲旗大会決勝後の会見では、多くの人から支えられたことへの感謝で大粒の涙を流した。また、「ずっとトップレベルで戦えて、選手として幸せだった」と充実感を口にした[6]

プレースタイル

スピードを生かした攻撃、読みの良い安定したブロックが持ち味。A・B・Cのクイックや一人時間差、CワイドやLの移動攻撃と多彩な攻撃パターンを持っている。Aクイックに入ると見せかけて、逆足でセッターの前を横切りCクイックに入る移動攻撃は杉山スペシャルと言われている。

所属チーム

球歴・受賞歴

脚注

  1. ^ 月刊バレーボール 1980年1月臨時増刊号 112ページ
  2. ^ a b c d 月刊バレーボール 2012年9月号 98-101ページ
  3. ^ Vリーグ機構. “NECレッドロケッツ杉山祥子選手連続出場試合数記録更新”. 2013年1月13日閲覧。
  4. ^ NECレッドロケッツ. “杉山祥子選手現役引退のお知らせ”. 2013年4月8日閲覧。
  5. ^ 大阪府バレーボール協会. “特別表彰選手(女子)”. 2013年5月10日閲覧。
  6. ^ a b SANSPO.COM (2013年5月6日). “引退のNEC・杉山「幸せだった」/バレー”. 2013年5月10日閲覧。
  7. ^ "バレー元五輪代表の杉山祥子さん、第2子女児を出産". ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. 28 April 2020. 2020年4月28日閲覧

外部リンク

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