森貢
森 貢(もり みつぐ、1908年(明治41年)5月5日 - 1960年(昭和35年))は、日本の海軍軍人、海軍航空隊戦闘機搭乗員。操練14期出身、最終階級は中尉。第二次世界大戦中には古豪の撃墜王の1人として知られた。 略歴1927年(昭和2年)、横須賀海兵団に入団、1928年(昭和3年)7月、第14期操縦練習生となり、1929年(昭和4年)5月卒業[2]。 1932年(昭和7年)の上海事変で空母「加賀」乗組み戦闘機隊として出動、上海飛行場に進出し、地上直協、哨戒任務に当たる。しかし、間もなく停戦したため交戦なく引き上げた[1]。 以後、大村海軍航空隊、空母「赤城」戦闘機隊、横須賀海軍航空隊、館山海軍航空隊で勤務。日中戦争勃発のため1空曹として1938年1月末付で中国戦線の第十三航空隊に発令され、2月頭に着任[1]。 1938年2月18日、漢口爆撃に向かう一連空の九六陸攻15機の援護隊(九六艦戦11機(12空5機、13空6機)、長:金子隆司大尉)第三小隊長として参加。13時、目標の王家墩飛行場にて迎撃に上がった中国空軍第4大隊(長:李桂丹上尉)のI-152 19機、I-16 10機[3]と交戦し、I-15 3機、I-16 1機の計4機を撃墜するが、うちI-15 2機は肩透かしによる正面衝突である[1]。中国側の記録によれば、第22中隊の呉鼎臣少尉と第23中隊の李鵬翔中尉と思われる[4]。 しかしこの時、森も左燃料タンクを撃たれ、蕪湖飛行場(Q基地)に着陸したときには右タンクも燃料ゼロの状態だった[5]。 3月に第十二航空隊に統合以降も、漢口、南昌での空中戦に参加。この戦功により下士官では異例の功五級金鵄勲章を授与されるも、撃墜数は記録不明[1]。 1939年(昭和14年)1月、本土帰還し鈴鹿空教員勤務[1]。 1940年5月、空曹長に昇進後、予備役に編入されたが即日召集された。太平洋戦線は1942年7月に2航戦の空母「飛鷹」戦闘機隊に配属され、34歳で最前線に復帰。10月に激戦のソロモン戦線に進出、空母飛鷹の機関故障帰国後、隊はラバウル、ブイン基地で1ヶ月間残留し、連続して陸攻を掩護しガダルカナル攻撃に参加。10月11日にはF4Fを撃墜。14日には艦爆1機を撃墜後、被弾不時着して救助された[1]。 1943年4月の「い」号作戦で再度ラバウル戦線に参加、2機を撃墜する[1]。翌月1943年5月に本土帰還、少尉昇進し、海軍航空技術廠で開発テストパイロット勤務。 1944年8月に中尉昇進と同時に36歳で退役。終戦時生存。以降は郷里静岡に帰郷するも、1960年(昭和35年)に病死[1]。 公認撃墜数は中国戦線で4機以上(不明)、太平洋戦線で5機[1]。 脚注
参考
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