櫻井秀勲
櫻井 秀勲(さくらい ひでのり、1931年3月4日 - )は日本の作家、編集者、YouTuber。 「ミニスカートブームの仕掛け人」「OLの名付け親」「西洋占星術を日本に紹介」として知られる。 『ウーマンウェーブ』代表取締役会長、『きずな出版』代表取締役社長、『KIZUNA CREATIVE』取締役、『早稲田運命学研究会』主宰。元女性自身編集長。著者『女がわからないでメシが食えるか』『男の運命は35歳で決まる』など200冊に及ぶ。古今東西の占い・運命学を研究活用している。 概要作家、きずな出版社長、5つのオンラインサロンのオーナー、YouTuberの顔を持ち、女学の神様・運命師・伝説の編集長などと呼ばれる[1]。 東京生まれ。東京都墨田区出身。東京外国語大学を卒業後、光文社に入社。遠藤周作、川端康成、三島由紀夫、松本清張など歴史に名を残す作家と親交を持つ[1]。 31歳で女性週刊誌「女性自身」の編集長に抜擢され、毎週100万部発行の人気週刊誌に育て上げる。主に「西洋占星術を日本に紹介」「OL(オフィスレディ)の名付け親」「ミニの女王ツィギーを日本の紹介」など[1]。 55歳で独立したのを機に、『女がわからないでメシが食えるか』で作家デビュー。以来『運命は35歳で決まる! 』『今夜から! 口説き大王』『寝たら死ぬ! 頭が死ぬ! 』『子どもの運命は14歳で決まる! 』『老後の運命は54歳で決まる! 』『60歳からの後悔しない生き方』など、著作は200冊を超える[1]。 経歴1931年(昭和6年)東京都墨田区に生まれる。東京外国語大学ロシア語学科卒業[2]。 1953年(昭和28年)光文社に入社。同期にロシア文学者の原卓也がいる。文芸誌の編集者を務め、色川武大・松本清張・三島由紀夫・川端康成など多くの文豪達と交流[2]。 1962年(昭和37年)31歳で「女性自身」の第3代目の編集長に抜擢、最高部数147万部の新記録を達成した[2]。 1970年(昭和45年)に発生した労働争議を機に光文社を退社し、祥伝社の設立に参加する。以後『微笑』(1971年~)『新鮮』(1972年~)『ラセーヌ』(1986年~)を創刊。女性誌の一時代を築いた[2]。 1986年(昭和61年)55歳で独立を機に『女がわからないでメシが食えるか』で作家デビュー。シリーズ40万部を越えるベストセラーとなった。以来、『人脈につながるマナーの常識』『今夜から!口説き大王』『寝たら死ぬ!頭が死ぬ!』など、著作は200冊を超える。運命学・女性学・性科学・結婚論などに関する執筆に従事して、女性心理・女性の生き方(恋愛・セックス・結婚・ビジネス)研究の第一人者となる。更に「口説きの裏ワザクマグス」として『新知識階級 クマグス』出演など、様々な媒体で広く活動している[2]。 2009年(平成21年)早稲田運命学研究会主宰。過去に文芸誌の編集者時代に、芥川賞作家にして、手相学・人相学の天才ともいわれた五味康祐に師事していた。人相学・手相学をはじめとする「運命学」を直伝。以来、独自に研究を重ねながら、占い・運命学を活用。アストロロジャー來夢に「運命実践家」と称される[2]。 2013年(平成25年)82歳で、出版社「きずな出版」を創業[3]。2018年(平成30年)本のさらなる可能性を求め「KIZUNA CREATIVE」取締役となる[2]。 2020年(令和2年)89歳の誕生日(3月4日)にYouTuberデビュー。人生相談を趣とする『櫻井秀勲の書斎』チャンネルを設立。女性の心理や口説き方、運命学だけでなく、松本清張や三島由紀、川端康成といった名だたる作家との交流や体験談などを話している[2]。 光文社取締役編集室長、祥伝社取締役編集部長、秀友社代表取締役、学習研究社編集顧問、共立女子短期大学講師を経て、現在、ウーマンウエーブ代表取締役会長、きずな出版代表取締役社長、KIZUNA CREATIVE取締役を兼任[2][4]。 『運命は35歳で決まる』『運命が怖いくらいわかる事典』『男の運命は女で決まる』『神秘力』など運命学に基づく著作はいずれもロングセラーになっており、その研究は50年に及ぶ[2]。 ミニスカートブームの仕掛人1960年代の女性週刊誌は「女性自身」と「週刊女性」の2誌だけだった。櫻井が「女性自身」の編集長になった年に講談社から「ヤングレディ」、小学館から「女性セブン」が創刊され、競争が一気に加速。食い合いになった結果、部数が落ちて「女性自身」は70万部から60万部くらいになってしまった。社内からは「もう櫻井ではダメだ。そろそろ交代させよう」と上層部の声があがり、会社は櫻井に1ヵ月ほどヨーロッパに行って遊んでこいということになった[5]。 もともと外語大出身の櫻井はヨーロッパに先輩後輩が駐在していたことから、旅自体はたのしかった。最後の目的地のローマで「Grazia」の編集長に会う約束をしたが、当日になって急に役員会議が入ってしまったので、代理にきた女性の副編集長が17才のツイッギーの存在を教えてくれて。櫻井は直ぐ様、日本に連絡、日本の契約へと繋ぐ。結果的に「女性自身」の部数は爆上がり。櫻井は東レとツイッギーを繋ぎ、1967年11月2日に日本武道館でファッション・ショーを開催。年に1000万ドル(36億円)を稼ぎ出すファッションモデルとして「ミニ(スカート)の女王」と呼ばれるようになり、日本の若い女性から羨望の的とされ、老若男女問わず、爆発的にミニスカートブームが日本列島を縦断することになった[5]。 「女性自身の部数はツイッギーを表紙にした号の売上が10万部増。翌週もツイッギーを表紙にして完売。櫻井は東京にツイッギーを呼び、東レと合同でファッションショーを仕掛け、毎号ツイッギーを表紙することを仕掛ける。完全に「女性自身」が独占状態となった結果、60万部と冷え込んでいた「女性自身」の最高売上部数は147万部となった。櫻井のクビはつながり、3年でクビ直前だった編集長の職を8年続けることになった[5]。 当時の映像と櫻井のインタビューを交え、2023年3月17日NHK総合放送『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』でも特集された[6]。 主な著作
出演
脚注
関連項目外部リンク
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