浜崎忠治
浜崎 忠治(はまざき ただはる、1915年9月28日 - 没年不明)は、広島県呉市出身のプロ野球選手(投手、二塁手、三塁手)、プロ野球審判員。 阪急で選手・監督として活躍した浜崎真二は実兄。真二同様身長が低く、身長156cmは日本プロ野球史上最短身とされることがある[1][2]。 来歴・人物浜崎真二の弟(但し14歳も年が離れている)として呉海軍工廠で働く人達が家を建てた呉市西の山の手・三津田に生まれた。名門・広島商業(現・広島県立広島商業高等学校)に進学し、在学中に甲子園には3回(3回とも選抜高等学校野球大会。1931年~1933年)出場。1931年の大会では、投手及び内野手として、広島商の夏春連覇に貢献した。広島商時代のチームメイトに、鶴岡一人(のち南海)、灰山元治(のち朝日)、奈良友夫(のち大阪)らがいる。広島商業卒業後は、横浜高等商業学校に進学。横浜高等工業学校との「ハマの早慶戦」でも活躍した。その後、社会人野球の満州倶楽部(大連市)でもプレーした。 1947年、中部日本ドラゴンズに入団。当初は高校時代と同じく、投手と内野手の二刀流で登録されていた(後に内野手に専念)。しかし、既に当時としては高齢だった(30歳を過ぎていた)ため、ほとんど活躍することが出来ず、1948年限りで引退した。 引退後は審判に転身。1952年7月に起こったいわゆる「平和台事件」の際に主審を務めていた。野村克也からはストライクゾーンを広く取る審判として著書などで度々名を挙げられており、南海時代の野村は対西鉄戦で先発が稲尾和久で、その試合の球審が浜崎だと、「試合が始まる前から勝てる気がしない」と思ったという[3]。 娘が2015年に新聞に寄稿した文章によると、浜崎が娘と高校野球を見ていた際に「高校野球の監督をしてみたかった」と口にしたことが一度だけあったという[4]。 詳細情報年度別投手成績
年度別打撃成績
背番号
脚注
外部リンク関連項目 |