田中義剛
田中 義剛(たなか よしたけ、1958年〈昭和33年〉3月13日[1] - )は、日本のタレント、シンガーソングライター、酪農家、実業家である。株式会社花畑牧場代表取締役。所属事務所はアップフロントクリエイト(2013年10月1日より所属。9月30日まではアップフロントプロモーション[注 1]に所属していた。花畑牧場はアップフロントグループの子会社)。 青森県八戸市出身[1]。青森県立八戸北高等学校・酪農学園大学酪農学部卒業[1]。理科の教員免許を持っており、母校の酪農学園大学では特命教授を務めている。身長184cm。 来歴・人物少年時代サラリーマン家庭に育つ。 北海道時代16歳の頃、漁船のコックをしていた友人がオホーツク海で遭難死。襟裳岬まで哀悼の旅に出て、その帰路、門別の牧場で馬の出産を目にし、牧場を開くことを夢に抱き、青森の高校を卒業後北海道の酪農学園大学へ進学。しかし田中は「鍬で開拓すれば牧場が簡単にできる」と思っていたため、大学4年のころ先生に「牧場をやる」と宣言した際に「牧場をやるには最低2億(1970年代当時)の資金が必要」と告げられ、ショックを受ける。 シンガーソングライターとしての活動を大学時代に開始。1980年、フレッシュサウンズコンテストで審査員特別賞を受賞。その後はラジオ番組のオーディションを受けるが歌ではなく、喋りで合格して、河村通夫のアタックヤング(STVラジオ)内で5分間のコーナー番組「田中義剛の酪農根性」を開始した。 東京進出札幌の歓楽街「ススキノ」に音楽パブ「ストーン・ウォッシュ」を出店するなど、北海道を中心に歌手および・ラジオパーソナリティとして活動していた。1987年、田中義剛のオールナイトニッポン(ニッポン放送)のパーソナリティを務めたことをきっかけに東京に進出した。その際は同郷の吉幾三が『俺ら東京さ行ぐだ』のヒットによりブレイクしたため、「上京したら全部面倒見てやる」と吉から言われたのを機に上京したが吉は「本当に来たのか?」と言ったまま地方巡業に行ってしまい、自ら所属事務所探しを始めるハメとなり、探し回った末に現在の所属事務所に何とか所属することが出来たという。 現在は実業家としてのイメージが強いが、シンガーソングライター時代はメッセージ色の強い楽曲で「吉田拓郎、長渕剛を受け継ぐ」という評価をされ、実際、長渕は田中に惚れ込み「田中の前座をやる」とまで言う程だった[2]。 牧場の開業1994年、事務所からの借金により、北海道河西郡中札内村に「花畑牧場」を開業した。開業当初はチーズなどの自家生産に失敗し、出荷したが返品されたこともあった。本人の話によると「カビた商品が返って来る事もあった」。借金は合計4億円(2万坪の土地購入資金に銀行の融資が2億円、傾きかけた事業の再生に向けて所属事務所アップフロントプロモーション(当時アップフロントエージェンシー)から1億円、損失が1億円)となった。30人いた従業員も続々と辞めて、田中と1人残った従業員の2人だけになり、一時は土地を売却し自己破産を迫られる危機的な状況に陥っていたが、土地は「資産価値無し」と査定され売却さえ難しい状態であった。 そこで、一時控えていたタレント活動を増やし、少しでも牧場の知名度をあげて話題に取り上げて貰えればと、番組共演者やスタッフに自社製品を手土産にしていた。持参したチーズの味を気に入った関係者の紹介で、レストランをはじめとする飲食店に少しずつではあるが販売経路を見出せるようになった。中でも恵比寿の人気ラーメン店 九十九ラーメンのトッピングにゴーダチーズ(北海道十勝ゴールデンゴーダチーズ・商標登録5641816号)が採用されたことが反転の大きなきっかけとなる。チーズの風味の劣化を最小限に抑えるため、客に提供する直前におろしたチーズを山盛りにトッピングした商品は目新しさも伴って、同店の看板メニューの一つとなった。1990年後半のラーメンブームにさしかかっていた時期であり、人気ラーメン店特集に同店が取り上げられる折には「花畑牧場産のチーズを使用」と紹介され、他の飲食店からも問い合わせが来るという好循環に恵まれ、経営を持ち直すきっかけになった。 その後も田中の営業は弛みなく、自信作であるゴーダチーズをはじめカチョカヴァロやモッツァレラチーズを番組出演時に持参しては美味しい食べ方や調理のレクチャーを行った。2006年にはノースプレインファームが開発し、花畑牧場でも2007年から生産を開始した生キャラメルがメディアで取り上げられ、大ヒット。これら商品群のヒットを以って、“花畑牧場ブランド”としての地位を獲得。自社工場を拡大するほどになった(2009年6月時点で年商120億円、従業員も1500人を超える規模に成長。以降の経営状況は『花畑牧場』の項を参照)。 現在現在はテレビのバラエティ番組やラジオのパーソナリティの仕事が多い。また上記「花畑牧場」ブランドをはじめ、北海道の農畜産物を道外へ売り込む等の「事業家」としても活動の場を広げている。この他、国家資格である家畜人工授精師(牛の種付け免許)を所持している。「田中義剛のオールナイトニッポン」ではこれを生かし、自分で種付けして生まれた子牛をリスナーの家に届けるという企画を行った。一方で歌手活動は東京進出後低調となり、1980年代後半に一時演歌歌手への転向も行ったがセールス的には失敗に終わった。現在は歌を披露することはほとんど無い。 論争2009年「週刊新潮」2月5日号において、「商品のアイデアは他社のパクリ」との批判が噴出している他、経営方法、メディア露出、近隣とのトラブル等、批判の声も高まっている、と報じられた。テレビ出演もゲスト出演のはずが、結局自分の牧場のPR活動になっている等、「夕張の救世主の筈だったのに夕張を踏み台にした」等揶揄する声も出てきており、当人に対してのクレームやバッシングも徐々に強くなっている。 事実、生キャラメルという商品そのもののアイディアは田中の物ではなく、北海道紋別郡興部町のノースプレインファームが2006年に開発したものである。こうした背景があるにもかかわらず、田中は2008年5月2日に自身の名義において「生キャラメル」の商標登録を申請するなど権利に貪欲な姿勢を見せており[3]、こうした行動が当人へのバッシングへと繋がっている。 こうした指摘に対して田中は「反感ばかりではなく、応援してくれるお客様が圧倒的に多い。食品コンプライアンス(安全管理基準)を守っていれば、いちいち(バッシングは)対応するに値しない」と語るなど[4]、バッシングも一種の有名税であるとして基本的に無視する姿勢を示している。 田中は「(日本の)農業は農協に売るだけで終わり(カネが得られる)。私は農協や問屋が入らずに、自分で作って自分で売っています。そこ(農協支配のシステム)を壊そうとしているので反感や、やっかみが相当あるのも確かです」とも語っており[4]、農協を中心とした農作物に関する既存の流通システムとの対立がバッシングの背景にあると分析している。 労働争議について2022年1月から花畑牧場のベトナム人従業員らから労働争議を起こされている。 →詳細は「花畑牧場 § 労使紛争」を参照
作品シングル
デュエットシングル
アルバムオリジナル・アルバム
タイアップ
出演TV
ほか多数 ラジオ
オールナイトニッポン、アタックヤング、MBSヤングタウン 全てのパーソナリティを経験しているのは田中だけである。アタックヤングとMBSヤングタウンは火曜日を同時期に担当していたので、ヤングタウンが午前0時に終了した後にアタックヤングで田中の声が流れるという状況が起きていた。 CM著書
脚注注釈出典関連項目外部リンク |