甲午改革
甲午改革(こうごかいかく)は、1894年(干支で甲午)から1895年にかけて大日本帝国の指導の下で行われた朝鮮の開化派を中心とした保護国状態の李氏朝鮮における近代化国内改革[1]。 大日本帝国から国内改革を要求された当初は朝鮮国王高宗は改革を拒んだものの、後に拒否したのは閔族及び清の李鴻章や袁世凱等によるもので自身の意志ではないとして許可をし、金弘集政権が誕生する。急進的な改革だと守旧派は反対したが、租税の金納化、通貨改革、身分差別の撤廃、刑罰の縁坐制と拷問の廃止など数々の改革を行った。しかし、1895年4月に三国干渉後に朝鮮半島で王妃の閔妃を中心に親露派の力が強まると、開化派政権の内務大臣だった朴泳孝[2]は同年8月に彼女から謀反の疑いをかけられ、日本に亡命する。その後は閔妃主導の親露派の内閣が生まれ、改革は停滞したものの、同年10月8日に閔妃が殺害(乙未事変)されると改革再開(乙未改革)された。1895年から1896年にかけて行われた乙未改革も甲午改革の一部とし、1894-1896年の改革全体を「甲午改革」と呼ぶこともある[1]。甲午更張(갑오경장)とも呼ぶ[3]。1896年2月11日、高宗が親露派によってロシア公使館に逃亡して露館播遷が起こすと、親露派の新内閣を成立させて乙未改革における近代化を停滞させた。これは、朝鮮半島を巡る日露戦争、李氏朝鮮を保護国方針から併合へする方向への転換へと繋がった[1]。 概要朝鮮では各地で乱が続いていた。1894年に甲午農民戦争が起こり、朝鮮の力が及ばず清に救援を要請し、清は朝鮮出兵を決め天津条約に基づき日本に朝鮮への出兵を申告したものの、その中で清は朝鮮を属領と称しており、朝鮮を独立国としてみる日本には到底看過できないものであった[3]。日本はこの機に独立問題を何とかせんがため漢城(現、ソウル特別市)に朝鮮公使として大鳥圭介を送り、また邦人を護衛するために済物浦条約第五款に基づき護衛兵も日本公使館のある京城に出兵した[3] (なお、日本と朝鮮との間には、「護衛兵派遣ノ権利保留ニ関スル往復」も存在した)。6月28日、大鳥公使は朝鮮政府に独立国であるか否かを問うたところ[4]、6月30日に朝鮮政府は独立国であると回答した[4]。日本は朝鮮の恒久的安定を得んがため、以下ような朝鮮内政改革案を6月28日に閣議決定し、これを機密命令として大鳥公使に送り、7月3日、5か条の改革案を以て朝鮮に内政改革を切に求めた[3][4]。
その後、7月9日に日本の要求は受け入れられ、朝鮮国王は「己れを罪する」の詔[3]「改革に関する国王の勅諭」[4]を発布し、7月10日には「校正廳設置に関する勅諭」が発布され[4]、申正煕・金宗漢・曹寅承を挙げて改革委員に任じて、日本公司は以下の細かい改革案[4]を提示し、改革の協議が始まった[3]。
7月16日に朝鮮政府は大体を了承すると大鳥公使に返答したが、大鳥公使が朝鮮政府に公文を要求したところ、朝鮮政府は7月18日、大鳥公司に対し以下のように伝えた[3][4]。
しかし、清が「清兵の大挙して入韓すべき」を声立して朝鮮政府を脅し日韓間の交渉を妨害していたことが発覚したため[4]、7月19日に日本は朝鮮政府に、清兵の撤去と朝鮮の独立に抵触する清韓間条約の破棄を求めた[3] (なお、清に対して、日本は当初から日清両国の助力による朝鮮改革を求めていたが、清は拒絶していた)。回答期限の過ぎた7月23日に京城へ向かった所、朝鮮兵との戦闘が起き[3]、日本軍が景福宮を占領し、開化派を中心とした金弘集政権が誕生する。朝鮮国王高宗は改革を拒んだのは妻の一族である閔族( 外戚)及び清の李鴻章や袁世凱等の意見によるもので国王の意志ではないとし、7月24日に「新政の勅諭」「大院君に政務委任の勅諭」「閔族処刑の勅諭」を下した[3]。 流刑処罰された閔族高宗による「閔族処刑の勅諭」に基づき、以下の六人の閔族が流罪の刑に処された[5]。 7月27日に改革の中心機関として軍国機務処が設置され、次のような改革が進められた。
12月には軍国機務処が廃止され、甲申政変に失敗して日本に亡命していた朴泳孝が内務大臣となり、引き続き次のような改革が進められた。 ところが、1895年5月に政権内部の対立で、金弘集内閣が崩壊する。朴泳孝は次の朴定陽内閣でも内務大臣となるが、三国干渉の結果、朝鮮での日本の影響力が弱まり、王妃の閔妃を中心に親露派の力が強まった。朴泳孝は8月に謀反の疑いをかけられ、また日本に亡命する。その後は親露派の内閣が生まれ、改革は停滞することとなった。 改革は10月8日に閔妃が殺害(乙未事変)された後、乙未改革に引き継がれる。 内閣校正庁校正庁の任命は以下の通り[5]。
政府新役員
軍国機務所会議
二府八衙門の官制後背景と評価もともと日本政府は江華島条約(日朝修好条規)で朝鮮の独立を世界で一番早く認めていた(というより、朝鮮が清朝の冊封体制から脱却し独立国となることを望んでいた)が、朝鮮の宗主国である清朝政府によって干渉、妨害され改革が進んでいなかった。 当時(日本の明治維新頃から)の李氏朝鮮王朝では興宣大院君派と閔妃派の間で激しい宮廷権力闘争が繰り広げられ、更に、それとはまた別な次元で、事大主義派と開化派との間の権力闘争が相俟って、混乱は複雑な様相を呈していた。壬午事変(1882年)後、興宣大院君が清へ連れ去られるというようなことが起きたりした。更に閔妃をはじめとする閔氏一族は、それまでの親日派政策(開化派)から冊封体制の宗主国である清への事大主義政策へと方向転換していた。 そのような朝鮮開化に対する清朝政府の干渉、妨害による近代化への遅れは開化派の突出行動を生み、甲申政変が起きる一因ともなった。甲申政変後、開化派が粛清される過程で、福澤諭吉らは朝鮮王朝の中華思想、小中華思想への固執に処し難いものを知り「脱亜論」を展開した。 そうこうしてるうちに、日清戦争が起き日本が清を破ったので、高宗は開化への障害となる清の圧力が日本軍の武力によって排除されたと判断し、開化派の主張を受け入れ、日本の明治維新の経験(身分制度撤廃、人材登用、司法制度等)から学び、以下、それまで清朝政府に半強制されていた律令制度文化(奴婢、白丁などの賤民制度、身分制度は律令制度の特徴である)等の悪弊、つまりは途方もない旧弊である中華思想の悪弊から脱却せんと改革案を断行したものである。 この改革における日本の影響と、朝鮮の近代化に与えた影響の程度について、歴史家の間で議論が続いている。 甲午改革は日本の明治維新に似ており、次のような強烈な改革をもたらした。
当時、李氏朝鮮の支配はロシア帝国、日本、アメリカ合衆国といった朝鮮への影響力を競う外部からの開国、改革、近代化といった強い圧力にさらされていた。甲午改革は主として、親日派官僚集団によって行われた。 この後、三国干渉が起きるが、それを重視した朝鮮王朝では親露派の威勢が強くなり、またもや事大主義が朝鮮王朝を席巻し、業を煮やした日本政府により親露派の首魁であった閔妃が殺害されるなど事態は悪化の一途を辿った。最終的には妻である閔妃を殺害され、自身も殺されそうになった高宗が日本政府に恐怖・失望し、露館播遷を行いロシア帝国の保護下に入ったことによってこの改革は無に帰すことになる。 そのような経緯を見れば、この甲午改革は朝鮮王朝や朝鮮民衆の近代化への意思にもとづく自発的改革ではなく、日清戦争の勝者である日本からの軍事的な圧力を穏便にやり過ごそうとした事大主義によるものであることを示していることが明らかである。 出典
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