町井邦生町井 邦生 (まちい くにお、1964年8月1日[1] - ) は、東京都葛飾区出身[2]の元オートバイ・ロードレース選手。全日本ロードレース選手権、鈴鹿8時間耐久ロードレースにヤマハ・ワークスチームより参戦した。 弟の義生 (よしお) も元ロードレース選手[3]。株式会社With Me 創設者の丸山浩はいとこ[4]。 経歴初期のキャリア1982年筑波プロダクション125でレースデビュー。1984年、全日本ロードレース選手権ノービスクラスにスポット参戦。同年9月30日のバトラックス筑波3時間耐久レースにSP忠男レーシングのBチームの一人として参戦、NP-IIクラス9位に入る[5]。 SP忠男入り1985年、筑波選手権に参戦しながら、最盛期であり500台以上のエントリーを集めていた[6]ノービスレーサーの祭典・鈴鹿4時間耐久レースにSP忠男チームより参戦し、スズキ・RG250ガンマで13位完走、筑波3時間耐久レースではFZ400Rで優勝する。同年11月にはヤマハの新型車TZR250(1KT)のレースデビューを担当し、筑波選手権F-3、NP-II両クラスでデビューウィンに導く[7]。モーターマガジン社の雑誌「Mr.Bike」ではテスト&インプレッションの担当ライダーを務めた[8]。 ジュニアダブルタイトル1986年ジュニア(旧国際B級)に昇格し、SP忠男レーシングより全日本ロードのジュニア250ccにTZ250で、TT F-3クラスにFZR400でダブルエントリー。好成績を連発しF3では8戦中6勝、250では5勝を挙げる圧勝でダブルチャンピオンに輝き、1987年からの国際A級昇格を決める[9]。 国際A級昇格A級1年目はTT F-1クラスにSP忠男よりFZR750で参戦したが、3戦目よりワークスマシンYZF750が供給されることになり、その初戦で優勝。レース後には、「今年はワークスマシンも多いし一ケタ順位入るのが目標と思ってたけど、YZFを貸してもらえることになったのでランキングの5位以内を狙いたい」と目標を上方修正する[10]。シーズンを終えると初年度にしてランキング3位と好結果を残した。1988年は全日本開幕戦のBIG2&4で500ccクラススポット参戦のチャンスがめぐってきたが、予選での転倒で指を負傷し決勝は欠場、500デビューはお預けとなった。TT F1ではYZF750の開発に携わり、自身でも「今年はマシン開発もしているし、YZFは自分好みのマシンに仕上がった。」と述べ、「500にも乗りたいけど、8耐で乗るF1にも賭けるものがあります。8耐は海外からたくさんレーサーが来るので、負けたくないって気持ちが湧いてくる気質なんですよ。レースと移動とテストの繰り返しでとても忙しいですよ。」と同年の状況を語っている[11]。全日本はシリーズ終盤までTT F1チャンピオン獲得を争っていたが、ウェットレースとなった第14戦TBCビッグロードレースにて首位走行中に転倒しノーポイントとなったのが響き、2年連続のランキング3位で終える。 レース雑誌インタビューでは、「世界グランプリ500ccにフルで行くのが夢。実現できなかったら自分の店を持ちたいですね、ブティックとか(笑)」と語ったこともあったが[12]、1989年より希望していた500ccクラス転向が叶い、250クラスの原田哲也とともに飲料メーカーNestleからのスポンサードを受けた「ネスカフェヤマハレーシングチーム」で全日本500に参戦。YZR500は自身3年ぶりとなる2ストローク車だったが早期に順応し、藤原儀彦、八代俊二に次ぐ全日本ランキング3位を獲得。1990年開幕戦筑波では、ウェット路面でペースをつかみ前を走る伊藤真一をパスすると、以後引き離し独走で500cc初勝利を挙げる[13]。その後も3位表彰台2回などランキング4位、1991年は転倒が減り確実性が増すも、レース最高位4位、ランキング7位だった。3シーズン500を戦い日本のトップライダーとなっていたが、1992年エントリーリストに町井の名は無く引退状態となった[14]。 レース戦歴全日本ロードレース選手権
ロードレース世界選手権
鈴鹿8時間耐久ロードレース
脚注出典
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