真田幸村の謀略
『真田幸村の謀略』(さなだゆきむらのぼうりゃく)は、1979年9月1日に公開された日本映画。製作・配給:東映。大坂の陣および、真田十勇士による徳川家康暗殺計画を大きなスケールで描いた時代劇映画。 『柳生一族の陰謀』『赤穂城断絶』に続く「東映大型時代劇」第3弾として製作された[2]。忍術戦や超自然現象の描写には特撮がふんだんに用いられている。 製作製作の準備に3年余(企画2年、脚本1年余)を費やし、さらに製作に約2年をかけた[2]。総製作費8億円、エキストラのべ4,000人、馬500頭、鎧700着が用いられた[2]。 脚本かつて中村錦之助(のちの萬屋錦之介)が真田十勇士・はなれ猿の佐助に扮して主演した『真田風雲録』は、隕石の地球落下の場面から始まっており、それから16年後に製作される本作では、より奇抜な趣向を取り入ようとする機運があった。『キネマ旬報』1979年9月上旬号によれば、当初、脚本チームの中心となっていた松本功がアクション部分を、田中陽造が十勇士に関する設定やドラマ部分を引き受け、ストーリーは昌幸・信幸と幸村のいわゆる「犬伏の別れ」に焦点を当て、最終的には監督の中島貞夫に委ねる予定だったが、第1稿はまとまりに欠けるものになった。 代わって脚本チームのメインに座った笠原和夫には、「新・十勇士」を「『影』の民衆の代表」としたい構想[3]があり、その案を実行したと劇場公開時のパンフレット[2]で明かしている。すなわち、十勇士のうち、海野六郎、望月六郎、筧十蔵、由利鎌之助を関ヶ原の戦いで敗走した浪人とし、根津甚八を山窩、三好清海入道を朝鮮王族の姫・ジュリアおたあ(史実では清海入道とおたあは別人)、三好伊三入道をその従者・尹三英とした。これに真田家の家臣である霧隠才蔵、小者の息子である穴山小助と、正体不詳(実は宇宙人)の猿飛佐助を加えて「新・十勇士」とした。ただ、こうして話を作っていくと、真田幸村を「ある種高貴でおかしなやつ、いわゆる悪党」として描かざるを得ないが、その幸村が草の者から一番遠いという自己撞着が生じ、そのことが笠原自身を悩ませていたともいう。 キャスティング『赤穂城断絶』が『柳生一族の陰謀』の半分以下の興行成績に終わったことから[4]、東映社長(当時)・岡田茂は大型時代劇の存亡を懸けた第3弾の主演に松方弘樹を起用した[4]。前2作の主演だった萬屋錦之介はトメ名の悪役に回った。 撮影パンフレット[2]巻末の「製作規模」によれば、劇中に建てられた長さ70メートル、高さ8メートルの出城・真田丸のセットは、延べ200人のスタッフが9日がかりで設営したもので、3000万円を費やした。 ストーリーある夜、日本各地で大きな隕石の飛行が目撃される。そんな中、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗退した西軍の真田幸村は、家臣・霧隠才蔵を、家康によって造営されたばかりの名古屋城に潜入させ、寝所を急襲させるも、それは影武者であった。才蔵は次に駿府城に帰る家康の行列を襲おうとするが、徳川方の忍者・服部半蔵に反撃される。才蔵はそこに現れた不思議な忍術を使う男・猿飛佐助に助けられる。 一方幸村は、父・真田昌幸とともに紀州九度山にこもって西軍の反転策を練っていたが、昌幸は徳川方の忍者が放った猫の爪に仕込まれた毒で暗殺される。さらに家康は、豊臣秀頼の毒殺をはかるが、それに失敗すると、家康と対立して秀頼の後見となろうとした加藤清正を、彼が飼っている虎による事故死に見せかけて葬り去る。幸村は兄の真田信幸に清正死去の報を聞き、徳川方に加わるよう説得されるが、それをはねつける。 幸村は、佐助や望月千代女率いるくノ一軍団の助けを借り、家康に追われて諸国に散っている草の者・忍びの者や浪人などを集める(真田十勇士)。幸村と十勇士は、天下統一の野望を成就しようとする家康の首を狙って以下の謀略をめぐらせる。
たったひとりで逃げ続ける家康の前に、本物の幸村が立ちはだかる。家康は首をはねられ、幸村は駆けつけた家臣たちに蜂の巣にされる(「家康の死は世の安定まで長く伏せられ、その死は病死とされた」という旨のナレーションが挿入される)。高みですべてを見届けた佐助は、「臨兵闘者皆陣列在前」の呪文を唱えると、その姿を巨大な隕石に変え、夜空の果てに消えていった。 登場人物出演クレジットの順や表記は作中のオープニングタイトルバックに、役名はキネマ旬報映画データベース[5]に準じる。
スタッフ
テレビ放送フジテレビ系列において、1982年4月29日の20時00分 - 21時48分に放送された[6]。 脚注
外部リンク |