石堂清倫石堂 清倫(いしどう きよとも、1904年4月5日 - 2001年9月1日)は、日本の評論家、社会思想研究家、社会運動家である。 来歴1904年、石川県石川郡松任町(現白山市)生まれ。第四高等学校で先輩である中野重治を知り、東京帝国大学在学中、新人会で共に活動する。1927年東京帝国大学文学部英文科卒業後、関東電気労働組合に勤務、東京府荏原郡馬込村で西田信春、大間知篤三、岩田義道、栗原佑との5人で共同生活。同年10月、日本共産党入党、11月無産者新聞の編集に携わる。1928年、「三・一五事件」に連座し逮捕。その後釈放と逮捕を繰り返し、執行猶予となって、1933年11月保釈。獄中でロシア語や中国語を独学、ペンネームでウラジーミル・レーニンなどの著作を翻訳。 1933年、転向・釈放後、1934年3月日本評論社に入社、「ゾルゲ事件」[1]で死刑となる尾崎秀実などと相知る。数々の書籍編集及び翻訳を手掛けたあと、1938年7月、満鉄調査部に入社、当時の関東州租借地の大連に赴く。旧友の宮川精一郎とともに甘粕正彦の関東州労務協会に関わる[2][3]。1943年7月、満鉄調査部第二次検挙(第二次満鉄事件)で逮捕、投獄。1944年12月釈放、1945年5月、関東軍二等兵として動員される。同年8月ハルビン郊外の兵営で敗戦を迎え召集解除。10月、大連に戻り、労働組合運動に加わる。大連のソ連司令部と折衝するなど在留日本人引き揚げに尽力、この地で中華人民共和国の樹立に接する。 1949年10月帰国、日本共産党に再入党、『マルクス=エンゲルス全集』『レーニン全集』『スターリン全集』などマルクス主義・レーニン主義の諸文献の翻訳に従事する。構造改革論を提唱、1961年8月離党届を提出し、11月日本共産党を除名される。 1977年6月、荒畑寒村、宮内勇らとともに運動史研究会を結成、全17巻におよぶ『運動史研究』(三一書房)を刊行。グラムシ研究会を創設しイタリア語を習得、『グラムシ獄中ノート』などアントニオ・グラムシの翻訳・紹介に努め、またイタリア共産党で構造改革論を唱えたパルミーロ・トリアッティなどを紹介する。他にもロイ・メドヴェージェフ『共産主義とは何か』など、数多くの翻訳を手掛けた。[4][5][6] なお、神奈川県藤沢市の藤沢市図書館市民図書館(湘南大庭)の特別コレクションに、彼の寄贈本で構成された「石堂清倫文庫」(図書、雑誌12,776点 非図書資料4,130点)がある[7]。 主な著書
翻訳
脚注
外部リンク
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