石川総氏
石川 総氏(いしかわ ふさうじ)は、江戸時代前期の旗本。総氏系石川家は三河国額田郡保久村(現愛知県岡崎市保久町字中村)に陣屋が置かれたことから保久石川家(ほっきゅういしかわし)とも呼ばれ、その家系は明治維新まで旗本家として続いた。 生涯寛永3年(1626年)下総国佐倉藩主となった石川忠総の七男として誕生。母は堀尾吉晴の娘。 寛永13年3月25日(1636年4月30日)将軍徳川家光に拝謁し、寛永18年8月(1641年9月)家光の嫡男徳川家綱誕生の後家綱に仕える。家綱加冠の儀に際し、総氏は末広(扇)を持ち供奉したことが記録されている[1]。 正保2年(1645年)従五位下市正に叙任。慶安3年12月(1651年2月)父忠総が死去した翌年の慶安4年4月4日(1651年5月23日)に父遺領の内より三河国額田郡・加茂郡の内で3千石が分与された。延宝5年4月(1677年5月)小姓頭を拝命、延宝8年5月(1680年6月)家綱逝去後の天和2年4月(1682年5月)上野国・下野国内で1千石の加増を受けた。 貞享4年11月(1687年12月)職を辞し旗本寄合席に列する。元禄8年7月(1695年8月)病により致仕し、家督を嫡男である総昌に譲り剃髪した。 元禄15年1月2日(1702年1月29日)築地萬年橋の屋敷にて死去した。 脚注参考文献
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