神吉宏充
神吉 宏充(かんき ひろみつ、1959年3月1日 - )は、将棋棋士。2011年、引退。内藤國雄九段門下。棋士番号は160。兵庫県加古川市出身。 将棋界きってのエンターテイナーと評される[1]。2021年現在の所属事務所は昭和プロダクション。 棋歴小学生の頃に将棋を覚え、中学生のときに本格的に指し始める[2]。そのきっかけは、おじさんに「ヨワ将」と呼ばれたこと[2]。 1977年のアマチュア名人戦で兵庫県代表[2]となる。全国大会では最年少の18歳であったが、ベスト4進出[1]。角頭歩戦法を用いた勝局もあったという[1]。 そして、1978年、内藤門下で奨励会に入会。入門前の約3年間は会社員だった[3]。1級での入会は1961年の若松政和(アマ名人戦優勝歴あり)以来17年ぶり[1]。それから4年8か月経った1983年、四段昇段(プロ入り)を果たす。 オールスター勝ち抜き戦での本戦進出も数回あるが、最も活躍した棋戦は、一般の将棋ファンに対する露出度が最も高いNHK杯戦である。たびたび予選を通過し本戦出場した。 第44回(1994年度)NHK杯戦では、先崎学・加藤一二三らを破り準々決勝進出(準々決勝で米長邦雄に敗れる)。対・加藤戦では解説役で師匠の内藤も加えて局後の感想戦を行ったが、そのとき、謙虚ながらも偉大なる先輩に勝ったという感動を露わにした。加藤に「今日は強かった」と言われ喜んでいる姿を見た内藤に「対戦相手に強いと言われて喜ぶとアマチュアみたいだ」と指摘されるが、「今日はそれでもいいです」と言った[4]。 第49回(1999年度)NHK杯戦では、青野照市と森内俊之に勝つ(この回の優勝者となる鈴木大介に3回戦で当たり、先手で持将棋となり先後入替の指し直し局で敗れる)。森内との対局の序盤では、神吉は定番の振り飛車穴熊にするが、それに対して森内は自分の飛車も振って、意表の相振り飛車戦に持ち込んだ。サービス精神旺盛な神吉は森内に勝った後の感想戦ではガッツポーズを決めていた[5]。 順位戦での通算成績は、81勝89敗である。C級2組からC級1組に昇級することはなかった。17年間(第43期・1984年度 - 第59期・2000年度)の中で最終局まで昇級争い絡むことはなく、最高成績は3度の7勝3敗である(第43期・第49期・第55期)。うち、第55期の勝ち越しは降級点を2つから1つに減らしたものであった。しかし、第59期(2000年度)で降級点を累積3点としてしまい、フリークラスに降級した。 2005年8月、瀬川晶司のプロ編入試験第2局の試験官(対戦相手)を務める。対局前に「振り飛車穴熊戦法」と戦法予告をし、全身ピンクのスーツ姿で対局に臨み、対局前に瀬川に「(目が)チカチカするやろ」と言っておどけてみせる。また、対局中に(対局当事者であるにもかかわらず)大盤解説場に登場して情勢についてコメントするなどのパフォーマンスを見せた。結果は瀬川の勝利。対局終了後、「プロ棋士になれる」と瀬川を励まし、勇気づけた[6]。後に瀬川の自伝を映画化した『泣き虫しょったんの奇跡』に、瀬川の編入試験の対戦相手である「神田宏充六段」役として出演した際にも、当時と同じピンクのスーツ姿を見せた。 第18期(2009年度 - 2010年度)銀河戦で、ブロック戦で4連勝し、決勝トーナメント進出(1回戦で丸山忠久に敗れる)。 2010年度をもってフリークラス降級から10年を迎え、引退が決まった[7]。そして、2011年6月1日、第24期竜王戦6組昇級者決定戦1回戦で牧野光則に敗れたのが最終対局となり、同日付で引退した[8]。 2018年、姫路市の商店街に将棋教室「プロ棋士神吉七段の大逆転将棋倶楽部」をオープン[9][10]。(2019年8月に姫路城・射楯兵主神社近くに移転) 棋風など振り飛車穴熊戦法を得意とする。その一方、神吉流穴熊というオリジナルの居飛車穴熊を開発し、振り飛車退治も得意にする。 先崎学によれば、素人相手の駒落ちでは羽生善治よりも神吉が強いという。その理由は「プロは詰み筋を読むがアマは読まない、だから(詰み筋が読めない)アマの力量に合わせて指せば勝てる」ということである[11]。 人物・エピソード
弟子棋士となった弟子
(2022年3月16日現在)
昇段履歴→昇段規定については「将棋の段級」を参照
主な成績在籍クラス→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
年度別成績
著書
出演オリジナルビデオ
ウェブテレビ
ゲーム監修
脚注
関連項目
外部リンク
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