科学的懐疑主義
科学的懐疑主義(かがくてきかいぎしゅぎ、英: scientific skepticism)とは、言説が経験(実証)にもとづいた研究によって支持されているのか、再現性を備えているのかを吟味・検討する活動であり、確かな知識を増やすための方法論としての基準の一部である[1]。実際には、科学者の通常的な議論や研究に対しては適用されておらず、主流からはずれていると思われるような理論や主張の検証に使用される。 科学的懐疑主義は哲学の懐疑主義とは異なる。厳格な哲学的懐疑主義というのは世界の性質を知るための我々の知識や能力をも疑う。それに比べて、科学的懐疑主義というのは妥当な証拠を欠いていると思われる主張に反対しはするが、批判的思考と帰納的推論は(懐疑せず、受け入れて)利用する。ポール・カーツが「The New Scepticism」で科学的懐疑主義を詳述した。 特徴科学者同様、科学的懐疑主義者は信仰、逸話、噂を受け入れたり、反証不可能な概念に頼るよりも、立証可能性や反証可能性にもとづいて主張を評価・吟味しようと試みる。懐疑主義者はしばしば、彼らが「信じがたい」「疑わしい」「一般的に認められた科学理論や知識に明らかに反する」と感じる主張に注意を向ける。これは科学的懐疑論者と専門的な科学者の間の違いである。科学者はそれぞれの分野で作られる仮説を検証するか、立証するか、反証しようと試みる。科学的懐疑主義者は風変わりな主張が自動的に即座に拒絶されなければならないとは主張しない。そうではなくて、彼らは「超常現象や特異な現象は徹底的に検証されなければならない」とし、また「途方もない主張というのは、有効であると受け入れられる前に、相応の途方もない量や質の証拠が提示されなければならない」と主張する。 The Skeptics Societyは次のように科学的懐疑主義を説明する。
懐疑主義者がしばしば批評の対象とするのは心霊主義、超心理学、ダウジング、占星術、ホメオパシー、タロット占い、エイリアンによる誘拐、超能力などが含まれる。ジェームズ・ランディのような懐疑主義者はこうした主張の偽りを暴くことで有名になった。彼らのように偽りを暴くことを活動の中心としている人々をデバンカーと呼ぶ。 懐疑主義は科学的手法の一部でもある。例えばそれが独立して再現可能であることが示されるまで、実験の結果は確立されたとは考えない。 懐疑主義的な原則に基づき、権威や信仰など懐疑的でない根拠ではなく、確かな根拠によって自分の心を決められるようになることが理想的である、と考える。 懐疑主義というのは、また、風変わりであったり、一般的ではないような主張に対する接し方(アプローチのしかた)であり、確実な証拠が不足している場合は、信じることよりも疑うことのほうを好む。懐疑主義は、UFOや超能力を信じることは、もしそれを支持する経験的な証拠がないならば、誤って導かれたのだと考える。古代ギリシアの哲学者プラトンは他の人々を無知から解放することは、最初は人々に抵抗されるが、それでも素晴らしくて壮大なことだと考えていた。現在の懐疑主義的な著述家は様々な方法でこの問題について述べる。 疑似科学の危険視バートランド・ラッセルは、個人の行動はそれぞれの信念に基づいている、と考えた。そしてその信念が証拠によって支持されていなければ信念は破壊的な行動を引き起こすことがある、と考えた。ジェームズ・ランディもしばしば詐欺の問題について書く。ランディはニセ科学を主張する者が、それを主張することによってどのように金儲けをしているかを示そうと試みる。偽医療の批判者は、不適格な開業医の不適切な助言(診断・処方)の問題を指摘する。偽医療は深刻な健康被害、さらには死をまねくことすらある。 宗教に対する態度のバリエーション多くの懐疑主義者は無神論か不可知論で、自然主義的な世界観を持つ。しかし献身的な懐疑主義者であっても、一部の人は神への信仰を表明している。たとえばマーティン・ガードナーなどがそうである。 リチャード・ドーキンスは宗教を「暴力の源」と見なし、また創造論を生物学の理解への脅威と見なす。一部の懐疑主義者は、指導者がパフォーマンスしたり是認したりする嘘の奇跡を人々が信じることを懸念して、カルト的な宗教に対する反対運動を支援する。 →「アンチ・カルト運動」も参照
脚注
関連項目関連書籍
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