箕浦勝人箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7年2月15日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月30日)は、日本の新聞記者、実業家、政治家。 経歴豊後国臼杵で、臼杵藩の武道師範の実相寺常之丞の次男として生まれる。15歳で藩家老の箕浦又生の養子となる。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。福澤諭吉の子孫の家庭教師を担当した。郵便報知新聞社に入社し、新聞記者の後、社長となる。立憲改進党に参加。明治22年(1889年)の東京市会議員選挙に日本橋区から立候補したが落選した[1]。明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で当選。大正4年(1915年)から大正5年(1916年)まで第2次大隈内閣の逓信大臣を務める。墓所は染井霊園。 栄典
著作
脚注
関連項目外部リンク
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