若松県若松県(わかまつけん、旧字体:若松縣)は、日本にかつて存在した県。主な管轄領域は、現在の福島県の会津地方および新潟県の東蒲原郡であった。県庁所在地は若松城(現在の会津若松市)[1]。 1869年(明治2年)6月に、会津藩の領地であった岩代国の西部(会津)および越後国の一部などを管轄するため、明治政府によって設置された。 1876年(明治9年)8月21日、若松県は福島県に合併されて廃止された[2]。 沿革近代以前若松県の主な領域であった会津地方および東蒲原郡は、江戸時代において会津藩が統治していた[3]。 設立1868年(慶応4年・明治1年)9月、会津藩は戊辰戦争における会津戦争に敗北して、明治政府軍に降伏した。明治政府は会津藩の領地をすべて没収し、政府の直轄地域として、同年11月までに若松・津川・小田付・坂下・野沢・猪苗代の各町に『民政局』を設置した[1]。 なお、旧会津藩の支配者層は陸奥国の下北半島(現在の青森県の東北部。本州の最北端)へと転封されて移住を余儀なくされ、斗南藩と名乗った。 1869年(明治2年)6月、各民政局の統廃合によって若松県が発足した[2][1]。 領地の整理蒲原郡の移管会津藩の領地は会津地方のほかに越後国の蒲原郡にも存在していたが、大部分が越後府(のち新潟府→第1次新潟県)、村上藩、黒川藩、三日市藩、新発田藩、村松藩など(いずれも後に新潟県へ編入)に移管された。ただし、会津藩がほぼ全域を所有していた東蒲原郡は、そのまま若松県の一部となった。 飛地領の移管また、飛地領として、越後国の岩船郡(現在の新潟県北部)や、河内国(現在の大阪府の東部)や和泉国(現在の大阪府の南西部)にも会津藩の領地が点在していた。それらのうち越後国の岩船郡の領地は村上藩へ、河内国の河内郡・讃良郡・茨田郡・交野郡・若江郡の飛地領は河内県へ(のち堺県に編入)、和泉国の日根郡の飛地領は堺県へ、それぞれ移管された。 和泉国南郡の飛地領は当初は若松県の管轄であったが、1871年(明治4年)に廃藩置県による府県の再編によって堺県に編入された。 安積郡11村の編入ほか、1872年(明治5年)、福島県(第2次福島県。現在の『福島県』とは異なり、当時は中通りのみを管轄した)の安積郡のうち、猪苗代湖の南に位置する11の村が、若松県へと移管された。これらの地域の住民にとっては、福島県庁のある福島(現在の福島市)よりも、若松県庁のある若松(現在の会津若松市)のほうが圧倒的に近く便利であるため、所属県の変更を希望して大蔵省へと要求を行って実現させた[4]。 なお、これらの地域は過去に江戸時代においても、住民の訴状によって二本松藩から会津藩へと所属を変更したことがあったという[4]。 福島県へ編入そして、1876年(明治9年)8月21日、第2次府県統合によって若松県と福島県(第2次)および磐前県が合併して新たな『福島県』となり、若松県は廃止された[2][1]。 分県運動と失敗上記のとおり若松県は1876年をもって福島県の一部となり消滅したが、旧若松県民であった会津地方などの住民にとっては、県庁所在地が会津盆地の中にある若松から、奥羽山脈を越えた遠方にある福島へと変わったことで大きな不便と衰退をきたした[4]。 これらの理由から、1881年(明治14年)、「若松県を福島県から再び独立させるべきだ」とする分県運動が起こった。大日本帝国の政府も当初はそれを承認し、1882年(明治15年)には『会津県』の再編成を計画した[4]。 しかし、政府はのちに計画を撤回し、若松県または「会津県」は独立することなく、福島県として留め置かれた(詳細は『分県運動』節で後述)[4]。 この運動を抑えるため[3]、1887年(明治19年)5月25日、旧若松県のうち福島県庁から特に遠かった東蒲原郡が、新潟県へと編入された[5][4]。 その後、分県は実現することなく、かつて若松県であった領域はそのまま福島県および新潟県の一部として現在に至る。 分県運動背景若松県の主たる領域であった会津地方は、周囲を奥羽山脈と越後山脈に囲まれた盆地である。現在でも福島県内の地域分類では、太平洋と阿武隈山地に挟まれた『浜通り』、阿武隈山地と奥羽山脈に挟まれた『中通り』と、この『会津』と、大きく3つに区別しており、これら3つの地域はそれぞれ独自の歴史・文化をもつ[4]。 若松県が発足する直前の江戸時代においても、会津および東蒲原郡は会津藩が一体として統治しており、中通りや浜通りは別の藩(二本松藩、白河藩、磐城平藩、相馬中村藩など)が統治していた[4]。 しかし、上述のように1876年に若松県が福島県・磐前県と合併されたことで、会津・中通り・浜通りはまとめて単一の県として管轄されることになった[4]。 全国の分県運動当時、全国的に府県を合併することが盛んに行われた。1871年7月の廃藩置県の当初には305もあった府県が、その3ヶ月後には第一次府県統合によって75へ減らされ、1876年には第二次府県統合によって38にまで削減された[6](若松県もこのとき廃止)。これは現行の46都府県よりも8県少ないものであった[4]。 しかし、この38府県への統合によって廃止された諸県では、住民の不満が噴出していた。予算の配分が各地域で不公平であることや、地理的利害が不一致なこと、そして県庁までの距離が増大したことによる交通の不便、さらに県庁や官庁を失ったことによる経済的衰退などが訴えられた。それらの住民は「再び県を独立させよ」という分県運動を起こした[7][8][9]。 結果、それらの住民による分県運動は中央政府にも認められ、1880年(明治13年)から1888年(明治21年)までに8つの県が独立・復活した[10]。次にそれらの例を示す。
会津の分県運動上述のような地域と同様、廃止された旧若松県の住民たちも不便を訴え、分県運動を行った。 運動の中心となったのは若松町内の有力商人であり、『会津帝政党』などの旧藩士族層によって担われたとみられる[4]。 運動の動機には、戊辰戦争の敗北後における会津の深刻な政治・経済状況があった。商況の不振から、道路の開墾や、在来産業の発展、山林の維持などが福島県議会で訴えられた。これら困難な地域問題に対して、一つの県として自立することで、独自の財政基盤によって地域産業(漆器・陶磁器・絹織物業など)の育成を目指した[4]。 建白書1881年(明治14年)10月5日、北会津郡面川村の平民であった加藤正記は、次のような内容の『若松県分県建白書』を政府の参議(大隈重信か)へ提出し、分県を訴えた[4]。
この建白書に続いて、同様の内容の建白書が同年から2年後にかけての5度にわたり、会津地方の住民らによって参議の大隈重信や内務卿の山田顕義、元老院議長の佐野常民へ提出された[4]。 報道また、同年11月15日には東京のマスメディア『朝野新聞』が、次のように報道した[4]。
続いて11月26日には、『東京経済雑誌』も、建白運動の様子を次のように伝えた[4]。
なお、この分県運動は自由民権運動との関連は特に確認されていない。会津・喜多方の民権家である原平蔵が自由党会津部に宛てた報告では、民権家の花香恭次郎は分県運動に良い印象を持たなかったという。報告は次のようであった[4]。
政府の反応1883年(明治16年)6月5日の森惣兵衛が内務卿へ提出した建白書『乍恐以郵便奉内願書』では、分県問題および会津三方道路開墾事業に関する、福島県令(県知事)の三島通庸とのやりとりが記録されている[4]。 旧若松県の住民らは、1881年12月から「そもそも当地方6郡および安積郡のうち8箇村は、福島・磐城地方と土地・人情を異にし、および県庁が遠隔」などの理由によって三島へ『若松県復置ノ儀』を請願したが、三島から「明治15年2月詮議に及び難き旨」として却下されていた[4]。 しかし、住民らは「民情止むを得ざる」ために再び請願した。これに対し、三島は建白者へ次のような説得を行った[4]。 年表
統計1875年(明治8年)11月、若松県は現在の県政要覧にあたる『若松県一覧概表』を発行した。内容には官庁位置・管轄区域・学区・戸籍・通運会社・名山・温泉・産物・民費などが記載されており、次のような記録が確認できる[1]。 歴代知事
脚注
関連項目
|