衝動殺人 息子よ
『衝動殺人 息子よ』(しょうどうさつじん むすこよ)は、1979年(昭和54年)に公開された日本映画。1978年(昭和53年)に『中央公論』で連載された長編ノンフィクション「衝動殺人」(作者は佐藤秀郎)が原作。製作は松竹・TBS、監督は木下惠介、主演は若山富三郎・高峰秀子。この映画で若山は第53回キネマ旬報主演男優賞・第22回ブルーリボン賞・第34回毎日映画コンクール・第3回日本アカデミー賞(最優秀主演男優賞)などの主演男優賞を受賞した。また同じく主演の高峰は、この映画を最後に女優を引退した。この映画が世論を動かし、犯罪被害者給付金制度の成立に貢献したとも言われる。 あらすじ京浜工業地帯で町工場を経営する川瀬周三は、溶接の影響で視力が衰えており、このため26歳になる一人息子の武志が、勤務してきた自動車工場を退職し、跡を継ぐべく父の工場で働くようになっていた。そんなある夜、武志は、友人と近くの釣り堀に出かけた帰り道で、通り魔に腹部を刃物で刺され重傷を負う。仇はとってくれよとの言葉を父に残し、武志は周三の腕の中で息たえた。 不可解な凶行に周囲は騒然となるが、すると犯人が家族に連れられて警察に出頭した。犯人は少年で、ヤクザ者にけしかけられ、誰でも良いから殺そうとした、というのが犯行動機だった。その暴力団関係者を警察は呼び出して詰問するが、組に入りたければ何でも良いから大きなことをしろ、と言っただけで、人を殺せとは言っていない、と責任回避してしまったので、警察も暴力団に対してこれ以上の追及はできなかった。 事件の理不尽さにより精神的な打撃をうけた周三は、経営する工場を放り出し、寝込んで食事をとらず、起きれば武志の墓に通い詰めるばかりだった。そんな周三のもとへ、事件を取材していた新聞記者の松崎が来て、横浜地裁で公判が始るので傍聴したらどうかと言う。そこで、妻と甥の三人で地裁に赴いた周三だったが、法廷に連れられて来た被告を見ると、隠し持った包丁を取り出し飛びかかろうとした。これは妻と甥に阻まれ、甥から、伯父さんまで殺人犯になってしまっては駄目だとたしなめられる。 犯人の少年は家庭環境に複雑な事情があり、そのためグレて暴力団員に近づき影響され犯行に及んだようであるが、法廷では、被告に国選弁護人が付き添っているだけで、傍聴席に被告の家族の姿は無かった。そして判決は、懲役五年から十年の不定期刑であった。これでは刑が軽すぎると周三は憤るが、被告は未成年であり諸般の事情も考慮すれば更生の余地があるとの判決理由だった。 息子は殺され損ではないかと感じた周三は、役所の無料法律相談に行く。そこでの回答は、現在の日本の制度だと、犯罪の被害者が公的な補償を受けられるのは、捜査や逮捕で警察に協力したために殺傷されたり、検察側の証人として裁判で証言したことで恨まれ復讐されるなど、お上に協力したために遭った被害についてのみ。あまりにも冷たいと感じた周三は、法律が間違っているのではないかと考え、その日から法律の専門書を買い集めて独学を始める。 さらに周三は、自分と同様に子供を通り魔に殺害された者がいると松崎記者から聞き、その中沢という人物を訪ねる。中沢の娘を襲った犯人は、警察の取り調べに対して、むしゃくしゃしていて誰でも良いから殺してやろうと思い刃物を持って出たと証言した。中沢の話を聞いた周三は、自分の息子の事件と共通していると感じたが、しかし中沢は娘を亡くしても他に息子がいるそうなので、跡取りの一人息子を亡くした自分よりはまだマシだ、という意味のことを周三は言って中沢を傷つけてしまう。周三は自分ばかり哀れんでいたことを反省し、もっと犯罪被害者の遺族に会って幅広く事実を知ろうと決意する。 彼は工場の売却で得た資金で全国を行脚し、何年もかけて大勢の被害者遺族に面会した。すると家族を亡くして悲しんでいるだけでなく、働き手を失い経済的困窮に見舞われている者が少なくないことがわかった。そして周三は、犯罪学を研究する大学教授の中谷に会い、犯罪の被害者とその遺族に対して国が補償をする制度を創設するべきだという持論を聞いた。これに共鳴した周三は、犯罪被害者の遺族たちに協力を呼びかけ、賛同の署名を集め、請願書を国会に提出する。 そのときすでに周三は緑内障により視力の悪化が著しく、失明は時間の問題だと医師から宣告される。それでも周三は、妻に手を引かれながら運動を続けた。そしてマスコミと国会で証言した周三は、ついに政府を動かすことになる。しかしその直後に心筋梗塞で倒れた周三は、武志が亡くなったのと同じ病院で66年の生涯を閉じる。 キャスト
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