軍事参議院軍事参議院(ぐんじさんぎいん、旧字体:軍事參議院、英語: Supreme War Council, Military Council[1])とは、1903年(明治36年)に設置され、1945年(昭和20年)に廃止された軍事に関する天皇の諮問機関である[2]。1887年(明治20年)の軍事参議官条例による参議官制に代わって設置された[2]。軍政側(陸海軍大臣)、軍令側(元帥、陸軍参謀総長、海軍軍令部長、親補された陸海軍将官)を参議官とし、そのうちの古参者を議長とした[2]。 軍事参議院は、天皇の諮詢を待って参議会を開き、意見を上奏するものとされ、独自に活動することを禁じられた。なお、陸海軍互に相関繋しない事項については陸軍または海軍のみの参議官を以って参議会を開くことが認められていた。 沿革前史軍事参議院が設置される以前、1887年(明治20年)に軍事参議官条例に基づき軍事参議官が設置された[3]。軍事参議官条例に基づく軍事参議官制度はドイツから招へいしたメッケル少佐によって提唱された「最高等陸軍参議官」に起因している[3]。軍事参議官制度では官制改正などの事項が頻繁に審議されたが、省部間の利害調整は果たせず、陸軍関係事項は陸軍当局者内で討議できたが、海軍関係事項は海相と参謀本部長の合議が必要だったため特に海軍側の不満が高かった[3]。 設置軍事参議院の構想は1901年(明治34年)4月には陸軍大臣の児玉源太郎による談話に現れている[3]。児玉の構想には陸海軍の合議機関の必要性のほか、都督部廃止による都督の新たな処遇の必要性、元帥府改革(元帥府を取り込んで多数決制とすることで介入を抑える)などの意図があったとされる[3]。しかし、児玉らの軍事参議院条例案は、行政整理案自体がとん挫し、「最上諮詢府」の設置に否定的で海軍将官会議や海軍技術会議など独自の機関が行政整理の対象になっていた海軍の強い反対にあって裁可には至らなかった[3]。 1903年(明治36年)9月に海軍大臣の山本権兵衛から海軍軍令部の海軍参謀本部への名称変更案が出された[3]。首相の桂太郎と元帥の山縣有朋が協議した結果、海軍軍令部を存置して山縣を委員長とする臨時会議で改正を審議することになった[3]。そこで参謀次長に就任していた児玉が山本の大本営条例改正に同調しつつ軍事参議院の設置を推進した[3]。 こうして軍事参議院は明治36年勅令第294号に基づいて設置された。 運用軍事参議官の役職は次第に古参将官の名誉職、あるいは次の親補職までの待機ポストに変わっていった。特に他の親補職との兼任がない軍事参議官専任の場合はその傾向が強かった。 1936年(昭和11年)の二・二六事件に際しては、当初は軍事参議官の中にも野中四郎大尉ら反乱軍に同情的な動きがあり、事態の収束を図るために軍事参議官も非公式に会議を開き、次の陸軍大臣告示(昭和11年2月26日)が発せられた。
しかし昭和天皇は断固討伐の意思を変えず、軍事参議官も最終的に追随。日和見主義と無力さを露呈し、陸軍内の世代交代・下克上をさらに促進することとなった。 廃止1945年(昭和20年)11月30日、元帥府条例等廃止ノ件(昭和20年勅令第669号)により廃止された。 構成軍事参議院は次の軍事参議官をもって構成される。
その他、必要ある場合においては重要の職に在る将官を以って臨時参議官に補して参議会に列させる。ただし、その関係する議事が終ったときはただちに解職されたものとされる。 特に軍事参議官に親補された陸海軍将官階級は補せられた時点のものを表記する。 陸軍
海軍
関連資料軍事参議官条例(明治20年6月2日勅令第20号)軍事参議官条例(明治20年6月2日勅令第20号)による軍事参議官制度の概要は次の通りである。
軍事参議官条例(明治26年5月20日勅令第35号)軍事参議官条例(明治26年5月20日勅令第35号)による、軍事参議官制度の概要は次の通りである(明治33年勅令第212号による改正前の制定時の概要)。
出典
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