非行少女 (1963年の映画)
『非行少女』(ひこうしょうじょ)は、1963年に公開された浦山桐郎監督の日本映画[1]。 同年7月開催の第3回モスクワ国際映画祭に出品され、金賞を受賞した[5]。 製作・撮影『キューポラのある街』(1962年4月8日公開)のプロデューサーを務めた大塚和は監督の浦山桐郎と、大島渚の映画の脚本家として知られた石堂淑朗を引き合わせた。浦山は。『別冊小説新潮』1962年7月号に掲載された森山啓の小説『三郎と若枝』の脚本を頼みたい、と石堂に話した[6]。浦山は数多くの教護院(現・児童自立支援施設)を取材したのちに脚本に取り掛かった[7][8]。浦山と石堂が共同で書いた脚本は『映画評論』1963年1月号に掲載された。 1962年11月にクランクイン。浦山は主役の和泉雅子をロケ先の実際の教護院に入れ、そこに暮らす少女たちと三日ほど生活させた上でリハーサルを繰り返した[3]。教護院の子どもたちも和泉とともに出演した[9]。内灘町の北陸学園寮がロケ撮影地として使われた[10]。和泉と浜田光夫は日活の看板俳優だったため、正月映画に出演しなければならず、12月に撮影は中断。1963年1月に撮影は再開[11]。映画は内灘闘争がストーリーの要の一つであり、内灘町の海岸の弾薬庫などで撮影が行われたが、いくつかの海岸のシーンは費用の関係で茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)で撮られた[12]。ラストシーンの撮影は白山市の加賀笠間駅で行われた[10]。 1963年3月17日に公開された。併映は西河克己監督の『雨の中に消えて』だった。 同年7月、第3回モスクワ国際映画祭に出品された。4日目の7月10日に上映され[3]、ベリコ・ブライーチ監督の『夕焼けの戦場』、ヤン・カダールとエルマール・クロスの共同監督の『Smrt si ríká Engelchen』とともに金賞を受賞した。グランプリをとったのはフェデリコ・フェリーニの『8 1/2』だった。映画祭に出席した浦山は『8 1/2』に叩きのめされた。ソ連からフランスに入るとパリの映画館で再び『8 1/2』を見た[13][14]。影響を受け、浦山は以後、シンボリックな技法を作品に取り入れるようになった[注 1]。 スタッフ
キャスト
受賞歴
脚注注釈
出典
参考文献
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