高千穂大学
高千穂大学(たかちほだいがく、英語: Takachiho University)は、東京都杉並区大宮2-19-1に本部を置く日本の私立大学。1903年創立、1950年大学設置。大学の略称は高千穂大。 沿革高千穂大学は、私学として日本で初めての高等商業学校を前身としている。
校章・シンボルマーク・校歌校章・シンボルマーク校章には稲、鏡、鵄(とび)が刻まれている。稲は「知性(知)」、鏡は「徳(真心)」、鵄は「体(勇気)」を意味し、これら知・徳・体を4年間の大学生活において体現することを意味している。 シンボルマークの3つのパーツは、知・徳・体それぞれを表現している。 校歌
教育及び研究学部
大学院附属機関
研究所
施設キャンパス
学外施設
対外関係大学間交流国際・学術交流協定校[6]スタディ・アブロード
系列校と歴史
高千穂の由来創設者の川田鐵彌が高千穂小学校と名付けたことに始まり、一貫して学校名に高千穂を冠している。日本の建国神話に由来する日本人の心のふるさと、天孫降臨に象徴される日本民族の精神的な発祥の聖地、すなわち日本人の精神的原点を指している。 旧制時代明治から大正期に、高級住宅街として知られた豊多摩郡大久保町(現在は新宿区新宿七丁目)で開校。明治36年 小学校の設立から12年で幼稚園・小学校・中学校・高等商業学校を擁する一貫教育を実現した。創設者の川田鐵彌の教育理念により、創設時より少人数教育で家族的な一貫教育を目指し、新宿、大久保、四谷界隈の資産家や実業家の子弟が学ぶ名門校であった。教授陣は充実し、当時の評議員や式典来賓には、渋沢栄一、男爵団琢磨、公爵山縣有朋など実業界の第一人者、政府高官、貴族の名が連なっており、旧制高千穂高等商業学校は官立の東京高等商業学校や有名私塾と肩を並べると評されていた[要出典]。
新制以降昭和20年5月までに空襲で大久保の校舎が全焼(現在、東新宿駅付近の東大久保児童遊園内に「高千穂学校発祥の地」碑がある。)し、高千穂経済専門学校(1944年改称)のある杉並区大宮に全てが移転した。戦後の学制改革で幼稚園・小学校・中学校・高等学校へ改組、経専は新制大学へ改組、再び一貫教育の体制が整い、昭和20年代の中学校・高等学校は、商大の他、有名校に多くの進学者を輩出していた。 しかし戦後の再建期の中で1953年、創立者の川田鐵彌が倒れ、鐵彌の親族同士の衝突、こと中学校・高等学校校長だった長男・正清と理事長・大学学長だった三男・正斉との対立が激化。これに加えて校内の風紀が著しく悪化し新入生や在校生も減少の一途をたどり、小学校・中学校・高等学校が休校に追い込まれるまでに至った。昭和28年1953年の川田鐵彌の発病とつづいての死去から、昭和38年1963年の学校再建への着手までの期間は高千穂学校の混乱期であった。 その後、商大卒業生有志が中心となって学校経営体制の刷新に立ち上がり、昭和40年代[9]は、校舎・グラウンドをはじめとした設備面の拡充・教職員の向上・経営体制の整備を着々と推し進め、商大を中心とした学園再建の動きに向かった。幾多の困難の末に混乱は収束し、社会問題であった学生運動、学園紛争の盛んな時期でも、商大では目立った事件・事故はなかった。
現在現在では文系3学部、大学院、付属研究機関を擁する。実学教育、国内外協定校との連携、創設以来の方針である少人数制を活かした教育を目指している[10]。高千穂幼稚園 は都内で100年以上の歴史をもつ3つの幼稚園の一つとして知られており、幼稚園歌の作詞は谷川俊太郎、作曲は服部公一である。 高千穂大学は、日本で私立の最初の高等商業学校を前身としている。 学生生活ゼミナール活動学内のゼミ発表会は毎年11月に1週間かけて行われる学校をあげての一大イベントである。例年100前後のパートが参加し、聴講者も1万2千人を超える大規模な発表会となっている。 学外のゼミ発表会では日本学生経済ゼミナール(学術団体)大会(日本でも最大規模の学術大会)の加盟校であり、毎年研究成果を発表している[11]。 サークル活動体育会は硬式野球部やアメリカンフットボール部など14団体、学術文化団体連合会は簿記会計研究会や軽音楽研究会など8団体がそれぞれ所属している。学術文化団体連合会は、年に一度六月祭という、日ごろの活動の成果を発表する場がある。 学園祭高千穂大学の学園祭は「高千穂祭」と呼ばれ、毎年通例10月に3日間にわたり実施される。アーティストによるコンサート、ミス・ミスターコンテスト、ゼミやクラブが模擬店を出店するなど、たくさんのイベントが開催される。 歴代出演者
産学連携
大学関係者と組織
→「高千穂大学の人物一覧」を参照
参考文献
関連項目外部リンク
脚注
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