高田宏治
高田 宏治(たかだ こうじ、1934年〈昭和9年〉4月7日 - )は、日本の脚本家。本名は名前の読みが(ひろはる)。東映で時代劇・現代劇・ヤクザ映画など、オールマイティに執筆をしている。大阪府大阪市出身。東京大学文学部英文学科卒業。 来歴1934年に大阪府大阪市で生まれ、太平洋戦争には宇治市に疎開していた。1950年に清水谷高校へ転校し、読書と映画に耽溺していた。1953年に京都大学を落第し、1年浪人。片思いの女性に振られたことで発奮、猛勉強に励んだ。1954年に東京大学へ入学。大学同期の大江健三郎に触発され、文筆生活を志す。1955年には砂川闘争へ参加。1956年に日本経済新聞社や岩波書店などからも誘いを受けるが、脚本家を一生の仕事と決め、東映に入社。降旗康男(1955年卒)・中島貞夫(1957年卒)とは大学からの交遊が続いた。 内田吐夢の助監督を務めた後、比佐芳武に師事。比佐から「こいつは当分ダメだが、20年後に大物になる」と見込まれる。1960年にはテレビ時代劇『白馬童子』の一編『南蛮寺の決斗』で脚本家デビュー。1961年から『柳生武芸帳』シリーズを担当し、ヒット。1964年頃、岡田茂に「高田は気狂いみたいなことばかり考えよる」と企画を批判されて東映を干されたため[2]、この頃は一時的にテレビドラマの脚本を手がけた。東映の任侠映画ノウハウを得ようとした大映から1969年に招かれ、市川雷蔵の遺作となった『博徒一代 血祭り不動』や『関東おんな』シリーズ、『シルクハットの大親分』シリーズ(1970年)、『まむしの兄弟』シリーズ(1971年)と喜劇性を強調した任侠映画、1973年に日本・韓国・香港・タイ王国ら4か国の俳優が出演した『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』を書いた。 1974年には千葉真一主演の『激突! 殺人拳』と『逆襲! 殺人拳』を執筆し、ヤクザ映画が下火になっていた東映にとって、久々の大ヒットをとばした作品となった[3]。同年内に欧米でも公開され、アメリカ合衆国では封切り公開後、3週間でベスト5に躍り出て、千葉は本作品で海外進出するきっかけとなった[4][5]。同年『山口組外伝 九州進攻作戦』で初めて実録路線を担当した。1975年には『仁義なき戦い』シリーズを書いてきた笠原和夫の依頼により最終作『仁義なき戦い 完結篇』を担いシリーズ最高の観客動員を記録したが、続けて担当した『三代目襲名』はそれを上回るヒットを記録した。 1976年は脱獄を請け負うブラックビジネスを描いた異色作『脱走遊戯』、1977年の『日本の首領』シリーズ、『北陸代理戦争』、『ドーベルマン刑事』、1978年にはオールスターキャストによる東映時代劇復興の第二弾『赤穂城断絶』、1982年は『鬼龍院花子の生涯』などを執筆。夏目雅子が発した「ナメたらいかんぜよ」が、流行語となるほどのヒットを記録した。1986年『極道の妻たち』シリーズを担当。 1997年には映像制作会社「ジャパン・アート」を設立し、リメイク作品『まむしの兄弟』、2000年には『新・仁義なき戦い』を書いた。 人物妻は40歳年下の美女で、都度都度、「お嬢さんですか?お孫さんですか?」と聞かれる[6]。貯金をせず、いつも現金を持ち歩き[6]、神波史男から「高田はいつも見せ金を持って歩いてる男だ」と言われた[6]。京都の定宿は佐々木旅館だったが、一番稼いでいた頃は浴衣を置く籠に1000万、2000万をポンと置き、遊びに行くとき財布の中身をいっぱいにして全部使った[6]。荒井晴彦を銀座のクラブに連れて行き、「俺は先生なんて呼び方を越えている。グレート高田と呼べ」と強要した[6]。顔が脚本家らしくない坊さん顔で、中国に映画祭で行った時、岡田茂を差し置いて、中国人が先に高田に挨拶に集まり「徳のある顔」と言われたという[6]。勲章にも興味がなく、映画賞の賞状やトロフィーの類は引っ越しのとき、ほぼ捨てたという[6]。唯一捨てて心残りなのは『鬼龍院花子の生涯』のときに夏目雅子から貰った「愛してます」と書かれたサインで「手元に残してたらどんなに価値があったやろ」と述べている[6]。最盛期には護国寺近くのボウリングが出来そうなワンフロア150m2の日商岩井のヴィンテージマンションに住んでいたが[6]、映画製作で人に騙され、スッカラカンになりマンション他、全て差し押さえられて山梨県に引っ越した[6]。 作品
著書
脚注
関連項目外部リンク
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