4世紀(よんせいき)は、西暦301年から西暦400年までの100年間を指す世紀。
できごと
300年代
310年代
320年代
330年代
- 330年
- 332年 - ローマ帝国でコロヌスの土地緊縛令。
- 337年
- 338年 - 「建武四年」の銘がある金銅仏坐像(伝河北省石家荘出土、サンフランシスコ・アジア美術館(英語版)蔵)が作られる。
- 「建武」は後趙石虎の年号で、この像は現時点で紀年銘のある最古の中国の仏像である。
- 339年 - サーサーン朝のシャープール2世のキリスト教徒迫害が始まる。
340年代
350年代
360年代
- 360年
- 361年
- ユリアヌスがコンスタンティウス2世の死去に伴い首都に入城。「異教」復活政策を開始(背教者ユリアヌス)。
- 363年
- 364年
- 365年
- 366年 - 前秦支配下の敦煌鳴沙山の断崖に僧楽僔が石窟を掘る(敦煌莫高窟の始まり)。
- 367年 - アレクサンドリア司教アタナシオスが『新約聖書』を現行27文書に限定することを通達(復活祭書簡)。
- 369年
- 倭国が朝鮮半島南部に任那を建国、倭国の北限とする。
- 石上神宮に所蔵されている七支刀は銘文によるとこの年に作られたか。
- 第287回オリンピック。記録に残る最後のオリンピック。
370年代
380年代
390年代
- 390年
- 391年 - 倭軍が渡海して百済・新羅を破り、臣民とする(高句麗広開土王碑)。
- 392年 - ローマ皇帝テオドシウス1世がキリスト教を国教と定め、ローマ帝国内での異教を禁止する。
- 393年 - 第293回オリンピック。古代オリンピック最後の年といわれるが、記録には残っていない。
- 394年
- 395年 - テオドシウス1世が死去し、ローマ帝国が東西に分割相続される。
- 東ローマ帝国をアルカディウス帝が、西ローマ帝国をホノリウス帝が継承。
- 東ローマ皇帝の後見者ルフィヌス(英語版)が、西ローマ皇帝の後見者スティリコと対立し殺害される。
- 396年 - 高句麗の談徳(広開土境好太王)が百済を攻め、その北部を領土とし、城下の誓いをさせる(広開土王碑)。
- 397年
- 398年 - 北魏の道武帝が盛楽から平城に都を遷す。
- 399年
- 中国の法顕が仏典を求めてインドに赴く。
- 百済が3年前の誓いに背き、倭と連合して新羅に侵入したため、新羅は高句麗に援助を求める(広開土王碑)。
- 4世紀後半
- 日本国内最大級の円墳である奈良市の富雄丸山古墳が作られる。
- この古墳の埋葬施設から国内最大級の「盾形銅鏡」や「鉄製蛇行剣」が出土する。
- 4世紀 - 5世紀
空白の4世紀
中国の歴史文献において266年から413年にかけての倭国に関する記述がなく、ヤマト王権の成立過程などが把握できないため、日本において「空白の4世紀」とも呼ばれている[2]。
文化
日本では古墳時代前期にあたる。古墳の副葬品として鉄製の農耕具が発見されていることから、鉄器の利用や農耕が行われていたと推測されている。また中国と交易が行われていた。
人物
地中海世界
アフリカ
ペルシア
インド
東アジア
五胡十六国から北魏
西晋・東晋
伝説・架空のできごと
- 4世紀 - エジプトのナイル川流域には少なからぬキリスト教の修道士が隠棲し瞑想と修養の日々を送っていた。修道院長パフニュスはこれらの修道士の中でも高い霊性と卓越した指導力で多くの人々の支持を得ていた。ある日パフニュスは、瞑想の最中に若き頃、自分を虜にした舞姫タイスのことを思い出す。多くの若き男性を翻弄したタイスを改悛させるべく、頽廃と悪徳の巷である大都市アレクサンドリアにパフニュスは向かった(アナトール・フランス『舞姫タイス』)。
- 303年前後 - 皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教徒迫害により、ローマ帝国の軍人だったゲオルギオスは小アジアのカッパドキアに退避する。この地のセルビオス王は毒を吐くドラゴンに悩まされており、王女をドラゴンの生贄に差し出すことになっていた。ゲオルギオスはドラゴンと果敢に戦い王女の救出に成功する(『黄金伝説』ほか「聖ゲオルギオス伝説」)。
- 314年 - 335年 - ローマ教皇シルウェステル1世による洗礼を受けて、ハンセン氏病が癒えたローマ皇帝コンスタンティヌスは、その感謝の印として教皇に自分と等しい権力を与えて全西方世界を委ねることとし、自分はコンスタンティノポリスに隠退することを表明した(8世紀頃に作られたという偽書『コンスタンティヌスの寄進状』)。
- 325年以前 - 晋の時代に信安郡の石室山へ王質という樵が分け入ったところ、数人の童子が歌いながら碁を打っていた。王質は童子にもらった棗の種のようなものを口に入れてそれを見物していたが、童子に言われて気がつくと斧の柄(柯)がぼろぼろに爛れていた。山から里に帰ると、知っている人は誰一人いなくなっていた(初出は虞喜『志林』所収の「爛柯伝説」。他に任昉『述異記』が有名)。
- 376年 - 396年 - 東晋の太元年間に武陵の漁師が桃の花の林に踏み迷い、洞穴を抜けて不思議な村里へ出る。外の世界と隔絶したこの村の人たちは長年の戦乱も知らず平和に暮らしていた。元の世界に戻った漁師たちは再びこの村を訪れるべく探索を重ねるがついに尋ね当てることができなかった。この地はやがて「桃源郷」と呼ばれるようになった(陶淵明の散文『桃花源記』)。
- 377年 - 仁徳天皇65年のこの年、飛騨国に両面宿儺なる異形の人物が出現した。計八本の手足に頭の前後両面に顔を持つという奇怪な姿であるため鬼神であるともされたが、天皇の命に服さず世を惑わしたため、武振熊命に追討させて乱を鎮めたという(『日本書紀』「仁徳紀」では凶賊として扱われるが民間伝承ではこの地の英雄としての伝承もある)。
- 383年頃 - 南西イングランドにあるドゥムノニア王国の王ドノート(ディオノトゥス(英語版))の王女ウルスラはアルモリカ(ブルターニュ)のコナン・メリアドク(英語版)との婚姻を結ぶため、1万1千の処女の侍女たちと共に船出した。婚礼に先立ちローマを含めヨーロッパ全域の巡礼を果たそうと大望を抱くも、途上のコローニュ(ケルン)で暴戻なるフン族に取り囲まれ、その侍女1万1千人とともに、ウルスラは虐殺され殉教を遂げたのである(「聖ウルスラの殉教伝説」)。
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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