APOELニコシア
APOEL(ギリシャ語: Aθλητικός Ποδοσφαιρικός Όμιλος Eλλήνων Λευκωσίας, ラテン文字転写: Athlitikos Podosfairikos Omilos Ellinon Lefkosias、スポーツサッカークラブ・ギリシャ・ニコシア[1])は、キプロス・ニコシアのスポーツクラブである。 APOEL(ΑΠΟΕΛ)は、イギリスの植民地支配にあった1926年11月8日にサッカークラブPOEL (ΠΟΕΛ) として創設され、1928年に陸上部門を加えてAPOELとなった[1]。サッカー部門のAPOEL FCは、2018-19シーズン終了現在においてキプロス国内リーグ28回、キプロス・カップ21回、スーパーカップ14回の優勝を誇る[2][3][4]。サッカーの他にも、バスケットボール、バレーボール、フットサル、卓球、ボーリング、サイクリング、アーチェリー、水泳、水球部門などがあり、多くのタイトルを獲得している[1]。 2016-17シーズンはホームゲームの平均観客数が7,126人を記録しリーグ最多記録となった[5]。 歴史1948年、クラブ内でギリシャ内戦への政治的立場を巡る対立が起こり、APOELを追放された左翼主義者達が後に最大のライバルとなるオモニア・ニコシアを創設した。 1963年、UEFAカップウィナーズカップ2回戦スポルティングCP戦1stレグで1-16の大差で敗れ、欧州カップ戦最多得失点差という不名誉な記録を作った[6]。 1960年代後半から1970年代前半にかけて、キプロスのリーグ優勝クラブは翌シーズンのギリシャリーグへと参加していたが、APOELは1973-74シーズンに13位となり、降格を免れた最初のキプロスクラブになった。 2009-10シーズンのUEFAチャンピオンズリーグは予選2回戦から出場し、予選3回戦でFKパルチザン、プレーオフでFCコペンハーゲンを下して本戦グループリーグ進出を決めた。キプロスのクラブとしては前年度のアノルトシス・ファマグスタに次いで2度目の本戦進出である。予選3回戦・プレーオフともに1stレグで敗戦したが、2ndレグで逆転して勝ち抜いた。本戦グループリーグ開幕戦はアウェーでのアトレティコ・マドリード戦だったが、組織的な守備で完封して勝ち点1を持ち帰った[7]。第2節のチェルシーFC戦は18分にニコラ・アネルカに先制点を許すが、後半にはいくつかのチャンスを作った。しかし、決定力を欠き、勝ち点獲得はならなかった。第3節のFCポルト戦では22分に相手DFのオウンゴールで同大会クラブ初となる得点を決めたが、その後は不用意なミスから2失点し、28本のシュート(うち枠内シュートは11本)を浴びせられて敗れた。第4節のポルト戦はボール支配率が互角と健闘するも、84分にラダメル・ファルカオに個人技から決勝点を許し、0-1で敗れた。3位でのUEFAヨーロッパリーグ出場権をかけた争いとなったアトレティコ・マドリードとの一戦は5分に先制したが、62分にシモン・サブローザに同点ゴールを許して1-1で引き分けた。 2011-12シーズンのUEFAチャンピオンズリーグは予選2回戦からの出場だった。予選2回戦、3回戦ともに無失点で勝ち抜き、プレーオフを2試合合計3-2で制し、本戦グループリーグに進出。第1節のFCゼニト・サンクトペテルブルク戦に2-1で勝利し、第2節のFCシャフタール・ドネツク戦を1-1で引き分けた。そのまま勢いに乗り、グループリーグ首位を快走。第3節、第4節ではUEFAヨーロッパリーグの前年覇者であるFCポルト相手にアウェーで1-1の引き分けに持ち込み、ホームでは2-1で勝利した。第5節のゼニト・サンクトペテルブルク戦を0-0の引き分けで終え、この時点でグループリーグ2位以内が確定。キプロスのクラブ初のUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント進出という快挙を成し遂げた。 続く決勝トーナメントではフランスのオリンピック・リヨンと対戦、アウェーでは0-1で敗れたが、ホームで1-0となり、延長、PK戦を制して、キプロス勢として史上初のベスト8という快挙を成し遂げる。 タイトル
過去の成績
現所属メンバー
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
スタッフ出典: apoelfc.com.cy
歴代監督
歴代在籍選手→詳細は「Category:APOELニコシアの選手」を参照
エンブレムエンブレムは白地の盾に、左上に青と右下に黄色を配し、その間に青い文字でAΠΟΕΛと書かれている。その上に金色の星が2つあり、これはリーグ優勝数(星1つで10回)を示す。青はギリシアの、黄色は東ローマ帝国の国旗から取られている。なお、アウェーユニフォームの赤も東ローマ帝国国旗の色が由来。デザインは基本的にクラブ創設から変わっていないが、1970年代には背景が暗い黄色地だった時期もある[1]。 脚注
外部リンク |