三菱A型 (みつびしAがた)は、三菱合資会社 が大正時代に三菱造船 および三菱内燃機 で製造した自動車 である。
概要
三菱・A型(1917年)
1917年(大正6年)から三菱造船神戸造船所 で試作を開始した。1917年は三菱合資会社が造船業を分社化して三菱造船(株)を設立した年である。1918年(大正7年)11月に完成した。すべて手作りですべて国産品でつくった。最初の2台は東京丸の内の八重洲ビル付近で公開した[ 2] 。1919年(大正8年)5月には「甲型」と称して、同じく開発されたばかりの航空機エンジンとともに福岡博覧会に出品した[ 3] 。1920年(大正9年)3月には米国製自動車の輸入販売修理の会社として三菱造船と三菱商事 が共同出資で設立した「大手商会」で販売した[ 2] 。(大手商会の主要な取扱車は、乗用車の「テムプラー(en )」、「スティーブンス」、「アーレン」や、トラックの「デンビー(Denby)」、「ダイヤモンド(en )」、ダンロップ タイヤだった[ 3] 。)販売不振のため原価を割る6,500円で販売された[ 3] 。同じく1920年(大正9年)に三菱内燃機 (現三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所 )が設立され、生産は名古屋に移管された[ 2] 。1921年(大正10年)に製造を終了し大手商会も1922年(大正11年)2月に解散した[ 3] 。1922年3月に開催された平和博覧会の交通館に出品された[ 2] 。
総生産台数は試作合わせて22台、販売はうち12台だった[ 3] 。このため日本初の量産された自動車、見込み生産による乗用車量産第一号[ 2] 、といわれる[ 注釈 2] [ 注釈 3] 。
三菱内燃機自体が飛行機製造を目的として設立された会社だったため業務が本格化するに伴い打ち切りとなった[ 2] 。会社の長期的取り組みとしての「数あるプロジェクトのひとつ[ 3] 」であり自動車に社運を賭けていたわけではなかった。軍部 の航空機の開発と製造を重視せよとの指示のため、国家とともに歩む会社としての三菱の判断は、民間向け乗用車の製造販売からの撤退であった。
この失敗を教訓としてその後の三菱は自動車が産業として成り立つまで乗用車産業に携わらなかった。三菱が乗用車産業に復帰するまで三菱A型についての情報は積極的に社外に公開することもなかった[ 注釈 4] [ 注釈 5] [ 注釈 6] 。
なお当時の車両は既に現存しない。現在三菱オートギャラリー に展示されているものは、1972年 に当時の写真と資料を元に三菱・ジープ をベース車として復元されたレプリカである。
仕様
三菱A型と同型のクーペショーファー型ボディを載せた1910年式フィアット・3型
三菱合資会社社長岩崎小彌太 が副社長時代に使用していたフィアット を模して製作したもの だった。モデルはフィアット・ゼロ (英語版 ) とフィアット・3型 (イタリア語版 ) である[ 注釈 7] [ 注釈 8] 。A型は運転席側面上部が開放されているだけのクローズドモデルであるクーペショーファー 型ボディ[ 注釈 9] を載せて作られた。ボディは樫をくりぬいて漆塗りされていた。
種類: 7人乗り箱型または幌型
車軸間距離: 9フィート(約2.7 m)
左右車輪間距離: 4フィート8インチ (約1.4 m)
重量: 2,900ポンド(約1,300 kg)
機関: 4気筒単一鋳、気筒経8 1/8インチ、衝程5.5インチ、課税馬力13.3、実馬力35
(三菱内燃機株式会社として1922年3月に平和博覧会に出品した時の仕様[ 2] )
関係者
初期三菱の経営戦略を担った荘田平五郎 の長男である荘田泰蔵 も携わっていた。1917年に神戸造船所に入社したばかりだった[ 3] 。イギリスのグラスゴー大学の機械科に籍を置いていたことから自動車開発チームへの参画を命ぜられた[ 3] 。当初はテストドライバーだった[ 3] 。白楊社 の豊川順彌 (豊川順弥)とは親類にあたる[ 3] 。
荘田泰蔵は、同時期には飛行機の開発にも携わっていた[ 4] 。戦後に新三菱重工の副社長となった。1957年にはのちにYS-11 と名づけられる中型輸送機国産化のための基礎設計を行った財団法人輸送機設計研究協会 の理事長となった。
脚注
注釈
^ 日本の自動車技術330選 - 三菱A型ではセダンと表記している[ 1] 。
^ 刀祢館正久著 「自動車に生きた男たち」ではタクリー号、DAT号の後、オートモ号の直前に紹介。「今から思えば、三菱A型までが"草分け"の時代だった」としている。生産台数は「約30台」と紹介。参考にしたフィアットは三菱自動車工業から「0号」(Fiat Tipo Zero )をモデルとしたと回答したと紹介。
^ 愛三工業 の荒井久治の1994年(平成7年)の著「自動車の発達史(下)」P14では「自動車の試作に成功」とし台数は「10台完成した」、「自動車産業への参入は、時期尚早と判断したのか、それ以上の深入りはなかった。その後本格的に自動車の生産に入ったのは、1932年の大型バス「ふそう」B46型からである。」と紹介している。
^ 1954年(昭和29年)奥村正二著の『自動車』では、『国産車が辿ってきた道』の章で、橋本増次郎の快進社のDAT CAR(脱兎号) 大正三年、実用自動車会社、フォードT型、白揚社のオートモ号、スミスモーター、東京瓦斯電気工業、石川島造船に触れているが三菱にはまったく触れていない。付録の『国産メーカーの系譜図』で三菱が登場するのは『1932年三菱造船神戸省営バス』から。尾崎正久の「日本自動車史」(自研社、昭和17年10月刊)を参考にしたと記されている。
^ 1899年(明治32年)兵庫県淡路島生まれ、大正7年(1918年)工業学校卒業し、日本最初の頃の自動車の販売と開発をおこない著作時には兵庫県尼崎市に居を構えていた平岡長太郎の1989年著「昔の飛行機と自動車」では『商品として最初に売り出した国産車としては、東京の「株式会社快進社」の橋本増次郎氏の作ったオートモ号であった。』(P59)『(オートモ号は)当時の自動車としてはほぼ完璧な出来映えで、使用者の評判もよく、関西方面にも多数入ってきた。』(P210)とオートモ号を最初の国産車として扱い、三菱は『大正四年頃から自動車部門を設け、国産車の研究を始めていたが、大正六年にようやく乗用車「三菱号」が完成した。』(P211)とのみ記している。
^ 「国産車づくりへの挑戦」P62では「三菱自動車の社史にこのあたりのいきさつがかなり詳しく記述されているが、それは飛行機の製造が禁止された第二次世界大戦後に三菱が自動車部門に積極的に参入したから、歴史として掘り起こされたものであろう。もし三菱重工業が自動車をつくらなかったら、大正時代の乗用車開発は、ほとんど記述することのない些細な出来事であったかもしれない。」と記している。
^ 「日本の自動車技術330選 - 三菱A型」では「A3-3型」と紹介している。
^ 「国産車づくりへの挑戦」では幌型の「1913: "Zero" - 4cyl」とクーペショーファー型の「1913: 3-3 A - 4 cyl」の2車種を紹介している。
^ 運転席と客席が分離されたリムジン型の一種で、客席はクローズドボディだが運転席は開放されているもの。
出典
^ 自動車技術会. “三菱A型 ”. 日本の自動車技術330選 . 2021年10月1日 閲覧。
^ a b c d e f g 「自動車に生きた男たち」刀祢館正久著 1986年刊
^ a b c d e f g h i j 「国産車づくりへの挑戦」 桂木洋二 2008年刊 ISBN 978-4-87687-307-4
^ 国産第一号機飛翔
外部リンク
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