守屋松之助守屋 松之助(もりや まつのすけ、1877年(明治10年)2月16日[1][2][3][4] - 1951年(昭和26年)12月23日[1][2][4][5][6])は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県岡山市長、小田郡矢掛町長。旧姓・石井。大原財閥の四天王と称された[2][7]。号・覚堂(かくどう)[1]。 経歴広島県[注釈 1]深津郡深津村[1][4](深安郡深津村を経て現福山市[1][4]東深津町[2])で、石井治郎右衛門の二男として生まれる[2]。11歳で父を亡くし、苦学して深津小学校、尋常中学誠之館(現広島県立福山誠之館高等学校)を卒業[1][2][3]。三菱合資会社三菱造船所(現三菱重工業長崎造船所)に勤務[1]。日清戦争、日露戦争に従軍[1][4]。1901年(明治34年)小田郡矢掛町の守屋忠作長女(火+禾)の入夫となり家督を相続[8]。 1906年(明治39年)常盤松高等農学校(現東京農業大学)に入学し[3]、1910年(明治43年)に同校を卒業した[1][2][3]。同年、矢掛町長に就任し2期8年在任[1][2]。その他、矢掛町会議員も務めた[5]。 1918年(大正7年)岡山染織整理 (株) 常務取締役に就任[4]。その他、井原織物所社長、井笠鉄道取締役、中国合同電気取締役、奨農土地取締役、井上鉄道取締役、合同貯蓄銀行取締役、岡山製作所取締役、日本真田監査役などを務めた[5][8]。 矢掛町長辞任後は小田郡会議員を務め[1]、1918年(大正7年)岡山県会議員に選出された[1][4]。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙で岡山県第5区から出馬して当選[5][7]。中立系の庚申倶楽部に所属して衆議院議員に1期在任した[5][7]。1924年(大正13年)立憲農本党の設立に参画し常任幹事となり、1925年(大正14年)憲政会岡山県支部長に就任[1][4]。反犬養毅の政治姿勢で活動した[7]。 1929年(昭和4年)2月25日、岡山市長に就任し、近隣三カ村の編入、農村の不況対策、岡山市歌の制定、第二回市史編纂事業の開始などに尽力し、1933年(昭和8年)に再選されたが、同年8月、市長選での贈賄容疑で逮捕され、同月2日に市長を辞職した[1][2][4][9]。 農業関係では矢掛町農会長、小田郡農会議員、岡山県果物同業組合長に在任し[5]、戦後、岡山県信用農業協同組合連合会初代会長などを務めた[6]。 著作
伝記
親族脚注注釈
出典
参考文献
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