アプトン・シンクレア
アプトン・シンクレア(Upton Sinclair, 1878年9月20日 - 1968年11月25日)は、アメリカ合衆国の小説家。多くのジャンルでの題材を社会主義者の視点から著し、相当の人気を得た。1906年に出版した『ジャングル(The Jungle)』によって、アメリカ精肉産業での実態を告発し、食肉検査法の可決に至った。 家族彼の両親は南部上流階級の出で、父方の家族はアメリカ独立戦争から至る海軍軍人としての伝統を持っていた。曾祖父はアーサー・シンクレア准将(1831年没)で、米英戦争で功績を挙げた。祖父のアーサー・シンクレア大佐は初めアメリカ海軍に勤務し、南部連盟軍に入隊するためアメリカ海軍を退役した。 幼年期と教育メリーランド州ボルチモアで生まれた。一家は南北戦争後経済的に困窮した。したがって、アプトン・シンクレアは富と貧困が入り交じった異常な躾けを持っていた。父親はアルコール依存症で肉親は貧しかったが、彼はしばしばニューヨークの裕福な母の親類の家に滞在し、アメリカ社会の両極端を経験した。 ニューヨーク市立大学シティカレッジに通うために彼はジョークとフィクションを雑誌や新聞に書き始め、三文小説をストリート&スミス社に執筆した。シティカレッジを卒業後彼はコロンビア大学の大学院に通った。 政治的・社会主義活動『ジャングル』の執筆後、シンクレアはヘリコン・ホーム・コロニー(ニュージャージー州に設立されたユートピア共同体)へ同書の売り上げおよそ30,000ドルを投資したが、不運にもそれは4か月後に火災で全焼した。 彼はカリフォルニア州知事選へ二度出馬した。最初はアメリカ社会党の候補として出馬したが投票はほとんど得られなかった。二度目は1934年に民主党候補として出馬した。 主な著書
エピソード『ジャングル』に日本で初めて注目したのは幸徳秋水だったという。 木村毅の著書『日米文学交流史の研究』によると、1931年に木村が渡米してシンクレアを訪問した際に、シンクレアは「日本から最初にジャングルの翻訳を申し込んできた人物について面白い話がある。名前は忘れたが10数年前、同志10数名と共に死刑になった男だ」と説明した。木村が「幸徳秋水ではありませんか」と確認すると、シンクレアは「コートク、コートク、ザッツオーライ」と反応したという。 「翻訳して掲載したのか」とシンクレアは木村に尋ねたが、幸徳は全訳は行わなかったものの1906年に『光』(平民新聞の後継機関紙)にて数回に渡り『ジャングル』の概要や著者についての紹介を掲載している。[2] 脚注
外部リンク
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