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イギリス中央アフリカ保護領

イギリス中央アフリカ保護領
British Central Africa Protectorate
マラビ帝国 1893年 - 1907年 ニヤサランド
BCDの国旗 BCDの国章
(国旗) (国章)
国歌: 女王陛下万歳
公用語 英語
首都 ゾンバ
国王
1893年 - 1901年 ヴィクトリア (イギリス女王)
1901年 - 1907年エドワード7世 (イギリス王)
保護領長官
1893年 - 1896年ハリー・ジョンソン(Sir Harry Hamilton Johnston)
1896年 - 1907年フランシス・ピアース(Francis Barrow Pearce)
変遷
成立 1893年
ニヤサランドへ改称1907年7月6日
通貨ローデシア・ポンド

イギリス中央アフリカ保護領(British Central Africa Protectorate:BCA)は、1891年から1907年まで現在のマラウイに存在したイギリス保護領である。

歴史

英中央アフリカ保護領の紋章を用いた切手

マラウイ湖の南にあるシーレ高原と湖の西側のエリアは、1850年代にデイヴィッド・リヴィングストンにより初めて探検され、1880年代には商業的目的からイギリス人の入植が始まっており、イギリス本国の関心を集めていた。

1889年から1890年にかけて、英葡危機(Anglo-Portuguese Crisis)と呼ばれる、イギリスがポルトガルに英葡永久同盟違反を理由に最後通牒を行う事態が生じたが、これはこの地域の支配権をめぐる争いから生じたものであった。その際、イギリスはシーレ高地保護領(Shire Highlands Protectorate)として保護領化の宣言を行ったが、1891年にはニヤサランド地区保護領(Nyasaland Districts Protectorate)として拡張した後、1893年にイギリス中央アフリカ保護領(British Central Africa Protectorate)とした。

サー・ハリー・ジョンソンは、1891年2月1日から1896年4月16日まで保護領長官として仕事を行った。ジョンソンは、行政機関警察の設立に加えて、彼はプランテーション鉱山経営企業設立の認可を行い、徐々に法的手続きに精通していない原住民から土地を奪っていった。なお、プランテーションで生産するコーヒーは、この国の最も優れた換金作物となった[1]。また、保護領内ではブランタイヤを経済と文化の中心とした一方、ゾンバに保護領長官の駐在地を置くとともに、行政の中心地とした。

サー・アルフレッド・シャープen:Alfred Sharpe)は、1896年から1910年4月1日まで、フランシス・ピアースウィリアム・マニングen:William Manning)とともに1907年から1908年にかけて保護領長官として活動した。

最終的に、この保護領は1907年7月6日にニヤサランド保護領へと改変された。

イギリス中央アフリカ保護領の切手と郵便史コレクション

詳しくは、イギリス中央アフリカ保護領の切手と郵便史コレクションen:Postage stamps and postal history of British Central Africa)の記事を参照のこと。

郵政事業は、1894年4月にイギリス南アフリカ会社によって開始された。その年内に、ブランタイヤゾンバカロンガなどの主要地域に郵便事業所が開設されている。この会社は切手の発行も行い、1903年にはエドワード7世 (イギリス王)切手が発行されている。

なお、1907年にニヤサランドとなって以降の切手発行業務は、ニヤサランド政府に引き継がれた。

脚注

  1. ^ British Central Africa - Wikisource

参考文献

  • Fred J. Melville, British Central Africa
  • De Robeck, A Pictorial Essay of the 1898 Provisional of British Central Africa - Nyasaland
  • Henry Hamilton Johnston, British Central Africa: An Attempt to Give Some Account of a Portion of the Territories Under British Influence North of the Zambesi (1898)
  • マラウイ略史
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