ウクライナの歴史この項目では、ウクライナの歴史(ウクライナのれきし)について詳述する。 先史時代・古代先史時代現在のウクライナで人類が現れたのは旧石器時代初期、約30万年前である。原人段階の人類は中東からカフカス山脈とバルカン半島を経て、黒海北岸へ移動したと考えられる。12万年前から旧人(ネアンデルタール人)が登場し、4万年前に新人(クロマニョン人)が出現した。ウクライナで発見された旧石器時代後期の新人遺跡は約800があり、新人の人口は約2万であったと推測される。1万年前以後、中石器時代において欧州の気候が定まり、ウクライナでは北部の森林地帯、中部の森林草原地帯、南部の草原地帯といった気候地帯が成立した。それぞれの地帯において異なる文化圏も形成された。人類は弓矢を使い、動物を飼育することができた。紀元前6千年期から人類は農業を始め、土器や布などを作成するようになり、新石器時代に入った。ウクライナで見られる新石器時代の農耕集落跡は、東欧最古であると考えられている[1]。 紀元前4千年期後半、ドニステル川とドニプロ川の間の地域では、トルィピーリャ文化(Трипільська культура)が発展した。トルィピーリャ人は、定住して農耕・畜産を営み、数百人の人口を持つ大きな集落で暮らしていた。彼らがウクライナで初めて犂、ドリルと銅加工技術を用いた人々であった。トルィピーリャ文化は東地中海文化圏に属していたと思われる。紀元前3千年期末になると、トルィピーリャ文化に変わって、青銅器時代の縄文土器文化(Культура шнуркової кераміки)と竪穴墓文化(Ямна культура)という新たな文化が誕生した。前者は農耕文化で、中央・東ヨーロッパにも広がり、ウクライナの森林地帯・森林草原地帯までに及んでいた。後者は畜産文化で、草原地帯を中心に黒海北部から裏海北部まで拡大していた。縄文土器文化の人々はインド・ヨーロッパ語族のゲルマン人・バルト人とスラヴ人の祖先になったが、竪穴墓文化の担い手のウクライナ南部の遊牧民の祖先となったと推測される[1][2]。 紀元前2千年期末から紀元前1千年期に、ウクライナにおける縄文土器文化はトシーネツィ・コマリーウ文化 (Тшинецько-комарівська культура)とビロフルーディウカ文化(Білогрудівська культура)へ移行したが、竪穴墓文化は校倉造墓文化(Зрубна культура)によって入れ替わった。校倉造墓文化の人々は畜産の遊牧民で、インド・ヨーロッパ語族のイラン語派に属していた。紀元前15世紀以後、彼らからキンメリア人、スキタイ人、サルマタイ人などが分かれたと考えられる[2]。 キンメリア人は、ホメーロスの『オデュッセイア』を初めとする古記録・古史料で見られるウクライナの最初の民族である。ホメーロスは黒海北岸の地を「キンメリア人の地」と呼んでいる[3]。 キンメリア人は伝統的な牧蓄を行いながら、紀元前10世紀から鉄生産技術を発展させ、周辺の地域を自らの支配下においた。紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけて、力を蓄えたキンメリア人は、小アジア半島の都市を略奪するため度々に遠征に出兵した。しかし、紀元前7世紀末期になると、キンメリア人の東に住んでいたスキタイ人はキンメリア人を黒海北岸から西方へ追い出した[1][2]。 スキタイ・サルマタイイラン系の遊牧騎馬民族が中央アジアから進出し、カスピ海東岸・黒海東北岸のキンメリア人を追いやったのは紀元前750年から紀元前700年ごろのことである[3]。新アッシリア帝国の王エサルハドンの年代記にはアシュグザーヤという名で記されているが、ギリシアやローマの著述家は専ら彼らをスキタイと呼称していた[4]。ヘロドトスは『歴史』のなかで、ドニエプル川河口を支配していたスキタイ人について、町も城塞も築かず、牛や馬に引かせた幌馬車で移動している民族として語っており、その土地は牧草に富んだ水の豊かな平原で、川からは多くの魚類を産出したとしている[5]。しかしながらスキタイ人は文字を残しておらず、その社会構造や政治システムなどは不明な点が多い[6]。かつてスキタイ人がウクライナの地を支配していたのは事実であるが、後世のロシア(ソ連)やウクライナの歴史においては異質な存在とされており、ウクライナにおける「自分たちの歴史」としてみなしていない面もある[7]。 スキタイ人は肥沃な大地から産出される小麦を元にギリシアとの交易により栄華を極めたが、紀元前4世紀ごろより進出してきたイラン系の民族であるサルマタイ人によりドニエプル川流域を追われ、紀元前2世紀ごろにはクリミア半島へと移動を余儀なくされた[8]。サルマタイ人による支配は3世紀ごろまで続き、その後はゴート族(3世紀半ばから4世紀末まで)、フン族(4世紀後半から6世紀半ばまで)、アヴァール族(6世紀半ば)、ブルガール族(6世紀末から7世紀半ば)といった諸民族による支配が断続的に続いた[9]。 中世キエフ大公国→詳細は「キエフ大公国」を参照
6世紀後半に入ると東スラヴ人がキエフ周辺を支配するようになった[10]。『原初年代記』には、東スラヴ人の中のポリャーネ氏族であった三人の兄弟(キー、シチェク、ホリフ)および彼らの妹であるルイベジにより、この地に町が作られ、キエフと名付けられたと記されている[10]。 一方、ノヴゴロドの地ではルーシ族の首長リューリクが一族を引き連れて到来し、ノヴゴロド公としてリューリク朝を興した[11]。キエフの町はリューリク朝の貴族アスコルドとディルによって征服されたが、彼らは882年にリューリクの息子イホルの後見人オレフによって討たれた[12]。オレフは近隣の諸部族を従属させ、この地を統治しキエフ公を名乗り、都をノヴゴロドからキエフへと移した[12]。こうしてノヴゴロドからキエフに至る広大な地を統治する国家(キエフ大公国)が誕生した[12]。 正式な国号はルーシ(ウクライナ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。 10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。 11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。 1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。 ハールィチ・ヴォルィーニ大公国ハールィチ・ヴォルィーニ大公国(ウクライナ語: алицько-Волинське князівство)は、1199年から1349年の間に現在の西ウクライナを中心として存在したリューリク朝のルーシ系国家である。 13世紀の半ば、その大公国はモンゴルの侵略を受けたキエフの公朝の後継者となり、キエフ・ルーシの政治、伝統、文化などを受け継いだ主な国家となった。その国家は、ローマ教皇をはじめ、中世ヨーロッパの諸国の援助の元に反モンゴルの先陣の役割を果たしていた。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国はルーシ系の諸公国の中でもっとも大きい公国の一つであった。その領土は、現在の西ウクライナ、西ベラルーシ、東ポーランド、北東ハンガリー、モルドヴァを含めていたが、政治的・経済的・文化的中心はヴォロディームィル、ハールィチそしてリヴィウという西ウクライナの3つの都市にあった。君主の力が弱く、ボヤーレと呼ばれた貴族の影響力が非常に強かったため、国家は常に内乱に陥りやすい状態にあった。1340年に大公朝が絶えると、貴族は一時的に国を支配するようになったが、隣国の圧力に対してうまく抗することができなかった。 その後、ポーランド王国とリトアニアの諸公の軍勢によって侵略され、分割された(ハールィチ・ヴォルィーニ戦争)。 領土の帰属問題は半世紀にわたって東ヨーロッパ情勢の不安定要因だったが、1392年、最終的にハールィチ公国はポーランド王国領となり、ヴォルィーニ公国はリトアニア大公国の支配下に置かれた。 近世→詳細は「ポーランド・リトアニア共和国」および「コサック」を参照
近代・現代ウクライナ人民共和国・西ウクライナ人民共和国1917年のロシア革命を機にウクライナはいくつもの勢力が独自の政府を組織して独立を宣言したが、いずれの勢力も互いに、またペトログラートのボリシェヴィキ革命政府と対立し、特に十月革命以降激しい内戦状態に陥った。これをロシア側ではロシア内戦と呼ぶ「ロシアの内戦」に包含しており、「ロシア内戦のウクライナ戦線」などと呼ばれているが、ウクライナではウクライナ内戦と呼ぶ。同時に、ボリシェヴィキとの戦闘をウクライナ・ソビエト戦争と呼ぶ。 主要な国家としては、中部ウクライナから東ウクライナにかけてウクライナ人民共和国、西ウクライナに西ウクライナ人民共和国が成立した。 十月革命時の最大勢力はキエフを首都とするウクライナ中央ラーダのウクライナ人民共和国で、臨時政府派、ボリシェヴィキが続いた。第三勢力のボリシェヴィキと共同して第二勢力の臨時政府派を潰した中央ラーダは、その後ボリシェヴィキの宣戦布告を受け戦争状態に入った。1918年1月には中央ラーダは首都を追われジトーミルで体勢を立て直した。2月に中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結したウクライナ人民共和国は、独・墺軍と共同してボリシェヴィキを一挙に壊滅し、クリミア半島に至る広大な領土を手にした。
一方、西ウクライナでは、1918年にウクライナ国民ラーダがリヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国を成立させた。しかし、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドとの戦争に敗れ、翌1919年に同共和国領はポーランドに併合された。 また、1919年2月からポーランドとウクライナ人民共和国によるボリシェヴィキ政府との戦いであるポーランド・ソビエト戦争と呼ばれる戦争が始められたが、その主戦場となったのはウクライナ地方であり、第一次世界大戦時の連合国各国派遣軍やドイツ帝国軍なども加わって激しい戦闘が繰り返された。
マフノ運動は一時期、ボリシェヴィキの赤軍や白軍を放逐した。ウクライナ人民共和国は、マフノ軍や白軍との戦いで消耗し、赤軍に対抗するためポーランドと連合した。ポーランド参戦以降のウクライナの戦いをポーランド・ソビエト戦争と呼ぶことがある。しかし、ポーランドの裏切りや軍隊内での伝染病の発生によりウクライナの命運は尽きた。中央ラーダ・ディレクトーリヤの残存勢力は、国外へ逃れ亡命ウクライナ人民共和国政府を立ち上げた。 一方、ウクライナ・ボリシェヴィキは、当初はモスクワのボリシェヴィキからは独立した組織であったが、次第にモスクワの支配下に置かれるようになっていった。白軍は一時はモスクワに迫るほどの勢力を持ったが、マフノ軍との戦いによる消耗と英仏軍の干渉の失敗により赤軍に敗れた。 ウクライナの独立勢力のすべてが「反ボリシェヴィキ」で一致していたにも拘らず、互いに協力せず潰し合いとなった最大の原因は、白軍の掲げた「不可分のロシア」という政策と反社会主義思想が原因であったとされる。また、マフノ軍はアナキストでありながら主に赤軍に協力して強大な白軍勢力を漸減したことも、赤軍勝利の大きな要因であった。マフノ運動賛同者は、最終的には赤軍によって老若男女ほぼ皆殺しにされた。 1922年にかけて共産主義のロシアに対して強く抵抗したので、ソ連の政権が「ウクライナ人の問題」を解決するために、ウクライナ人が住む地域において人工的な大飢饉を促した。1933年に「ヨーロッパの穀倉」といわれたウクライナではホロドモールによって数百万人が餓死した。 内戦は最終的には1921年の白軍の壊滅により終結したが、ウクライナでは1919年のウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立を経て、1922年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国や白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト連邦を結成した。当初はウクライナ政府にもある程度の意思決定権が与えられていたが、それは徐々に制限されるようになり、結局ソ連の結成によりまたもやウクライナの独立は失われることとなった。ロシアにとってウクライナはすべての産業の中心地であり、手放すわけにはいかなかった。また、内戦の終結後西部のハルィチナー地方など一部地域はポーランド領となった。ルーマニアはウクライナの一部の併合により「大ルーマニア」の夢を達成した。 ウクライナ社会主義共和国第二次世界大戦始まる第二次世界大戦が始まった1939年、ソ連はポーランドに侵攻し、占領した西ウクライナをウクライナに組み入れた。その中で一時カルパト・ウクライナの独立が宣言されたが、ドイツは同盟国であるハンガリーへその領土を組み込んだ。1941年以降の独ソ戦で赤軍が敗走を続ける中、キエフ包囲戦において、66万人以上のソ連軍兵士が捕虜となった。
1941年のナチス・ドイツとソ連の開戦は、スターリンの恐怖政治におびえていたウクライナ人にとって、一時的に解放への期待が高まることになった。ドイツ軍は当初「解放者」として歓迎された面もあり、ウクライナ人の警察部隊が結成された。独ソ戦では、ウクライナも激戦地となり、500万以上の死者を出した(ソ連の内務人民委員部(NKVD)はウクライナから退却する際に再び大量殺戮を行っている)。 しかし、彼らの目的であるウクライナの政治的・文化的独立は、ソ連のみならずドイツ側からも弾圧された。かねてより独立活動を行ってきたウクライナ民族主義者組織 (OUN) が1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは武力でこれを押さえ込もうとした。ドイツは、「ウクライーネ国家弁務官区」を設置しナチス親衛隊が直接統治を行うこととした。 ウクライナ人は「劣等人種」とみなされ数百万の人々が、「東方労働者」としてドイツへ送られて強制労働に従事させられた。またウクライナに住むユダヤ人はすべて絶滅の対象になった。ドイツの占領などによる大戦中の死者の総数は、虐殺されたユダヤ人50万人を含む700万人と推定されている。人だけでなく、穀物や木材などの物的資源も略奪され、ウクライナは荒廃した。このドイツ軍の暴虐にウクライナ人農民は各地で抵抗し、やがて1942年10月、ウクライナ蜂起軍(UPA)が結成されるに至る。おもに西ウクライナにおいて、テロ活動などでドイツ軍と戦った。UPAが活動を活発化させればさせるほど、ドイツ軍もウクライナ人迫害の手を強めた。 一方でドイツ軍は、1943年春にスターリングラード攻防戦で決定的な大敗北を喫すると、自らの軍隊に「東方人」を編入させようとして、武装親衛隊(武装SS)にウクライナ人部隊「ガリツィエン師団」を創設した(この時期、武装親衛隊はウクライナ人だけでなく、多数の外国人を採用している)。ウクライナ人たちも、ドイツ支配下のウクライナの待遇が改善されること(自治・独立)を希望し、約8万人のウクライナ人が応募、そのうち1万3千人が採用された。ガリツィエン師団以外にも、多くのウクライナ人が「元ソ連軍捕虜」としてドイツ軍に参加している。しかしそれらを圧倒的に上回る数のウクライナ人が「ソ連兵」としてナチス・ドイツと戦い、死んでいった。当時のソ連軍兵士1100万人のうち、4分の1にあたる270万人がウクライナ人であった。 やがて、ドイツが敗走して再びソ連軍がやってくると、ウクライナ蜂起軍(UPA)は破滅的な運命をたどる。 第二次世界大戦後 戦後、ソ連はポーランドやチェコスロヴァキアと共同軍事行動をUPAにたいして起こし、ポーランドでは国内のウクライナ人を強制退去させる「ヴィスワ作戦」が行われた。戦後まもなくの東欧は、新しく引きなおされた国境線にしたがって大量の人々が無理やり移住させられる時期だった。ウクライナでも、ポーランドなどから追い出されたウクライナ人が大量に国内へ流入する一方で、多くの国内のポーランド人、ユダヤ人は国外へ強制退去させられ、国内からほとんど姿を消してしまったのだった。 ウクライナは第二次世界大戦において最も激しい戦場になったとされ、その傷跡は今日にまで各地に残されている。ドイツ空軍機による破壊は文化財にもおよび、多くの歴史的建造物が失われた。ソ連政府は、ウクライナ人への懐柔策として「南方戦線」と呼ばれていたこの地域の戦線を「ウクライナ戦線」と命名し、ウクライナ人を前線へ投入した。 第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国の国境は旧ポーランド領であったハリチナー地方などを併合して西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家の下に統合された。ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」といわれた。 戦後のロシア化から名誉回復までソ連とは別に国連総会の議席を持っていたが、スターリン政権下では「ロシア化」が押し進められた。ソ連がフルシチョフ政権となると大粛清の犠牲となったウクライナ人の名誉回復がされ、1954年にクリミア半島がロシアからウクライナへ移管されウクライナ的な文学も登場した。しかし、ブレジネフ政権となると再び知識人への弾圧が行われた。また、1986年のチェルノブイリ原発事故は国内外に大きな被害を与えた。東欧革命やウクライナ語の公用化によりウクライナの民族運動は激化し、1991年8月にはウクライナの独立が宣言された。 ソ連からの独立後2004年のオレンジ革命、2014年のマイダン革命、クリミア危機、親ロシア派騒乱など親欧米派と親ロシア派の対立が高まり2022年にはロシアによる全面侵攻に発展した。 地図年表先史時代から近世まで
ロシア革命からソビエト連邦時代まで
独立以降
地域史→詳細は「かつてのウクライナの国家の一覧」を参照
脚注
参考文献
外部リンク |