スペインの歴史
この項目ではスペインの歴史(スペインのれきし)について述べる。 先史時代後期旧石器時代の紀元前1万4千年代、クロマニョン人がスペイン北部にてアルタミラ洞窟の壁に動物画を残した。この頃の人々はハプログループI2a (Y染色体)に属していたと考えられる[1]。 紀元前5千年頃の新石器時代には中東方面から農耕が伝播し、巨石記念物の建造が始まった。イベリア半島に農耕と巨石文化をもたらしたのはハプログループG2a (Y染色体)と考えられ[2][3]、先住のクロマニョン系ハプログループI2a (Y染色体)と共存していたようである[4]。 紀元前2500年頃より青銅器時代が始まり、ハプログループR1b (Y染色体)に属す[4]ケルト系民族[5]が到達したと考えられる。 古代紀元前12世紀、フェニキア人がイベリア半島に進出。フェニキア人はヨーロッパで最古の都市カディスを建設した。フェニキア人はイベリア半島の鉱山や漁業交易を支配するためにイベリア半島に進出してきたが征服はしなかった。フェニキア人はイベリア人に数字やアルファベットを伝えた。時を同じくして紀元前1000年頃、ガリアのケルト人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進入し、ギリシャ人もイベリア半島を訪れるようになり、その頃からイベリア半島は数多くの地域と交易をするようになった。 紀元前2世紀、ローマとカルタゴが争ったポエニ戦争の影響を受け、イベリア半島はその2つの国から狙われることとなった。イベリア半島はお互いの陣営による激しい攻防戦が続けられていたが、遂に紀元前205年にローマ軍の手に落ち、その後長い間ローマの支配を受けることになった。 ローマ帝国の支配→詳細は「ヒスパニア」を参照
ポエニ戦争のあと共和政ローマの支配下に置かれていたイベリア半島は、帝政を始めたアウグストゥスの下で、三つの属州へと再編された。ヒスパニア・バエティカ、ルシタニア、ヒスパニア・タラコネンシスの三つである。このうち、属州タラコネンシスは、3世紀末に三分割されて、それぞれカルタギネンシス、ガラエキア、タラコネンシスとなった。「パックス・ロマーナ」のもとで商品作物を栽培して繁栄したほか、帝国最大の版図を現出させたトラヤヌス帝のように多くの人材を輩出した。セビーリャやカルタヘナなどの都市部ではローマ化が進展した。また、紀元1世紀よりキリスト教がもたらされ、徐々に都市部から農村部へと浸透していった。ニケーア公会議で主席を務めたのがコルドバ司教ホシウスであったように、教会関係の人材も輩出した。 中世西ゴート王国の支配→詳細は「西ゴート王国」を参照
415年に南下してきた西ゴート族によって西ゴート王国が建国され、南フランスのトロサ(現トゥールーズ)に都した。ゴート族は150年に南下し、黒海沿岸に定住したが、220年頃にゴート族が東西に分裂した。さらに、ゲルマン人がイタリア、ガリアに進出する。375年にはゲルマン人が民族大移動を行い、それにより西ゴート族がフン族に圧迫され南下し、その後西ゴート族はイベリア半島に進入した。560年に西ゴート王国はトレドに遷都した。585年には西ゴート王国によって、現ガリシアにあったスエボス(スエビ)王国が併合された。 イスラム帝国の支配→詳細は「アンダルス」を参照
イスラム帝国勢力のウマイヤ朝は、北アフリカにまで勢力を伸張させると、さらに711年にベルベル人を率いたターリク・イブン・ズィヤードのもとでジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島へ上陸し、グアダレーテの戦いで西ゴート王国を滅ぼした。一時はサラゴサ、レオンなど北部の都市まで彼らによって征服され、カンタブリア山脈、ピレネー山脈付近を除くイベリア半島の大部分がイスラム勢力の支配下に入り、アル=アンダルスとして716年よりウマイヤ朝の属州となった。 722年、コバドンガの戦いでペラーヨがイスラム軍を破り、オビエドを首都とするアストゥリアス王国を建国し、レコンキスタ(再征服運動)が始まった。 ウマイヤ朝は、ピレネー山脈を越えてフランク王国に戦いを挑むが、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルに敗れたため撤退した。ウマイヤ朝は750年に滅亡したが、756年にウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世によって後ウマイヤ朝が建てられた。この王朝は、10世紀前半のアブド・アッラフマーン3世のもとで最盛期を迎え、自らカリフを称してアッバース朝、ファーティマ朝といった他のイスラム勢力に対抗した。10世紀後半には侍従がカリフ権を形骸化させて実権掌握を図るなど混乱が続き、指導力を欠く短命なカリフが相次いだ後、1031年に後ウマイヤ朝は滅亡した。後ウマイヤ朝の都のコルドバはトレドと並び西方イスラム文化の中心地となり、イスラム哲学のイブン・バーッジァ、 イブン・トファイル、イブン・ルシュドなど多くの学者が活躍した。 後ウマイヤ朝の滅亡後、アル=アンダルスでは「第一次タイファ時代」と称される小王国分立の時期を迎えた。そのうち代表的なものはセビリア王国、トレド王国、サラゴサ王国、グラナダ王国、バレンシア王国などである。これらの諸王国が結束を欠く中、1085年に西方イスラム文化の中心地の一つであったトレドが、カトリック勢力のカスティーリャ王国に征服されるという事態が起こった。この状況を憂えた小王国は、マグリブのムラービト朝に援助を求めた。これに応えたユースフは、サグラハスの戦いでアルフォンソ6世を破りアンダルシア地方などの支配を回復させるとともに、アル=アンダルスの小王国を統制下においた。 しかし、まもなくカトリック勢力が巻き返しを図ったことに加え、イスラム勢力の内部でもアフリカから来たムラービト朝と在地の小王国の対立が深まり、さらに北アフリカではムワッヒド朝が台頭していた。こうした中、13世紀にはムワッヒド朝によってムラービト朝は滅亡へと追い込まれ、再びイベリア半島は「第二次タイファ時代」と称される分権的な状況が生まれた。その後、ムワッヒド朝もイベリア半島へ進出して統一的な支配を行おうとするが、やはりアル=アンダルスの在地勢力との対立が深まったことや、1212年にカトリック連合軍とのナバス・デ・トロサの戦いで決定的な敗北を喫したことから、「第三次タイファ時代」の分裂期を招いた。徐々に台頭するカトリック勢力と比べ、著しく結束を欠いたイスラム小王国の多くは、レコンキスタに屈して支配下に入った。滅亡を免れたナスル朝グラナダ王国も、まもなくカスティーリャ王国への貢納を余儀なくされた。 レコンキスタ(国土回復運動)→詳細は「レコンキスタ」を参照
一方、当初はイスラム勢力に圧倒されていたカトリック諸勢力がイベリア半島北部より台頭し、「国土回復」の名のもとレコンキスタ(再征服運動)を展開した。その担い手となったのが、ポルトガル王国、カスティーリャ王国、アラゴン王国などであった。1479年、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国は、1492年にナスル朝グラナダ王国を滅ぼしてレコンキスタを完了させた。 イベリア半島における文化交流カトリック勢力とイスラム勢力はイベリア半島で衝突を繰り返したが、こうした両勢力の接触は一方で文化的な交流をもたらすことにもなった。11世紀後半、イスラム世界における西方の文化的な中心都市トレドがカトリック勢力によって奪われたことを契機として、この地でアラビア語からラテン語へ諸文献を翻訳することが盛んに行われた。こうして、イベリア半島は西ヨーロッパ世界に先進のイスラム文化をもたらす窓口としての役割を果たし、西ヨーロッパの「12世紀ルネサンス」を導いた。 近世アブスブルゴ朝(ハプスブルク朝)の成立→詳細は「カトリック両王」および「スペイン・ハプスブルク朝」を参照
アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の王女フアナを神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子ブルゴーニュ公フィリップ(美公)と結婚させた結果、2人の間に男子が2人生まれた。スペインの貴族の多くはカスティーリャで育った二男のフェルナンドに好意的だったが[6]、長男のカルロスがフェルナンド2世の死後、1516年にブリュッセルでスペイン(カスティーリャ=アラゴン)王への即位を宣言した。翌1517年にカルロスはスペイン入りしたが、フランドル人の側近に傅かれ、スペイン語を一語も知らずに王位に就いたカルロスは多くのスペイン人の反感を買った。1520年に南ドイツのフッガー家の援助を受けて神聖ローマ皇帝選挙に勝利したカルロスが、神聖ローマ皇帝カール5世として戴冠するためにアーヘンに赴いた最中に、コルテスでカルロスが新たに定めた40万ドゥカットの上納金を不服としたカスティーリャの諸都市が反乱を起こし、コムネロスの反乱が勃発した。 コムネロスの反乱において、当初カスティーリャのトレド、セゴビアなどの諸都市はコムニダー(防衛協約)を結び、オーストリア人の支配に抵抗する構えを見せていたが、反乱は次第に貴族の特権に対する社会革命へと変質していった[7] 。このため、反カルロスでコムネロスを支持していた大貴族は動揺の末コムネロスを裏切り、1521年4月23日にビジャラールの戦いでカルロスが勝利するとコムネロスの反乱は終息した。こうしてスペイン・ハプスブルク朝(アブスブルゴ朝)が成立した。この時代は、ハプスブルク家がヨーロッパで覇を唱え、「新大陸の発見」による植民地獲得によって隆盛を極める一方、スペインの利害はハプスブルク帝国全体の利害の前に沈黙することになった。 大航海時代と植民地帝国1492年 スペイン女王イサベル1世の援助を受けたジェノヴァ人クリストファー・コロンブス(クリストーバル・コロン)が新大陸を「発見」した。これにより、1488年に喜望峰を探検しているポルトガルと利害が衝突する怖れがでたため、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介で1494年にスペインとポルトガルとの間にトルデシリャス条約が結ばれた。インドに到達したと思ったコロンにより、アメリカ大陸の人々はインディオ(インド人)と呼ばれたため、以降彼等はインディオ、あるいはインディアンと呼ばれ、以後500年以上に渡る構造化された苦難の時代が始まった。またスペインは地中海へも勢力を伸ばし1503年にはナポリ王国を獲得した。 一方新大陸への征服は継続され、エンコミエンダ制のもとイスパニョーラ島やキューバなどで砂金の採掘が始まった。また苛酷な労働と疫病で先住民が死亡したため、スペイン人はアフリカから黒人奴隷を新たな労働力として持ち込み、プランテーションでの奴隷労働に従事させた。このような新大陸での苛酷な現状はドミニコ会司祭バルトロメ・デ・ラス・カサスによって激しく非難された。ポルトガルがインド航路を発見したことに対抗して、フェルナンド・デ・マガリャーネス(フェルディナンド・マゼラン)に新大陸周りで香料諸島への航路を探検させた。マガリャーネスはマクタン島でラプ=ラプとの戦いによって戦死したが、この大航海をきっかけに、スペインは東南アジアのフィリピンを植民地にした。 1521年にはエルナン・コルテスがアステカ文明を滅ぼし、1520年代中にはペドロ・デ・アルバラードがマヤ文明を滅ぼし、続いて1532年にフランシスコ・ピサロはインカ文明を滅ぼし、スペイン人によって三つの文明が滅ぼされ、アメリカ大陸本土はあらかたスペインの植民地となった。このような新大陸での探検と征服が進む一方で、スペイン人による先住民の支配は社会の荒廃と資源の収奪を極め、メキシコや中央アメリカ、アンデス地方では麻疹や天然痘、百日咳などで人口が激減し、1545年に現ボリビアのポトシ銀山で銀の採掘が開始されると、先住民は徴発され「ミタ」と呼ばれる賦役制度を課された。こうした重労働や疫病とあいまって、アンデス地域のインディオの共同体は軒並み甚大な打撃を受け、西インド諸島のようにインディオが絶滅する地域もあった。1550年にはこのような状況の是非を問う「バリャドリード論争」が、ラス・カサスとセプルベダの間で展開された。 だが、このような多大な犠牲の元スペインには大量の銀がもたらされ、スペイン黄金時代を築くことになった。 一方で、それまで南ドイツ、すなわちチロル(クロイツァー)やボヘミア(グルデングロシェン[注釈 1][8])の銀山が栄えていたが、南米からのスペイン銀の大量流入で、銀の流通量増加による価値の低下でインフレ傾向が起こるいわゆる価格革命、商業革命が起こった。さらに、人々の奴隷労働によってアメリカ大陸からスペインに流出した富のほとんどはオランダ、イギリスといった新興国に流出し、スペイン国内では蓄積も産業形成もなされずに、これら西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積過程を支えることになった。 黄金の世紀→詳細は「スペイン黄金世紀」を参照
16世紀中頃から17世紀前半までの約80年間はスペインが繁栄した時期であり、スペイン史上「黄金の世紀(Siglo de Oro)」と呼ばれる。カルロス1世はフランスのフランソワ1世と熾烈な争いの末に神聖ローマ皇帝に即位し、ヨーロッパにも広大な領土をもつことになった。しかし、その治世は多難でイタリア戦争ではフランソワ1世と争い、さらに宗教改革による神聖ローマ帝国の動揺にカトリックの盟主として対処することになった。さらにオスマン帝国に第一次ウィーン包囲の脅威にさらされ、プレヴェザの海戦ではオスマン帝国に敗北を喫した。 次のフェリペ2世の時代には、新大陸からもたらされた富で最盛期を迎え、マドリードに遷都しエル・エスコリアル宮殿を営んだ。さらにレパントの海戦でオスマン帝国を破り先王の雪辱を果たした。1580年にはポルトガルを併合したことで、ブラジルやアフリカ、インド洋に広がっていたその植民地をも獲得し「太陽の沈まぬ帝国」(スペイン帝国)となった。 最盛期を迎える一方で、足元では八十年戦争やアルマダ海戦の敗北など衰退の兆しも現れ始めていた。国内にも問題がなかったわけではない。アメリカ大陸から収奪した富に頼る一方で、国内は旧態依然としたままであり、王室の国庫も決して良い状態ではなかった。前世紀のレコンキスタの精神は、反宗教改革の情熱と結びついたフェリペ2世によって全スペイン領での異端審問制度の拡大に繋がった。こうしてスペインにおいてはムスリムの徹底した排除(ラス・アルプハーラスの反乱・モリスコ追放)や進取の気風に富むプロテスタントの弾圧へと向かい、足元の産業や経済の基盤を弱めることになった。さらには、スペインの経済を支えていたユダヤ人の追放、改宗への強要など、これらはスペインの停滞・衰退へと向かう要因となった。 スペイン帝国の没落1588年に アルマダ海戦でスペインの無敵艦隊がイングランド海軍に敗れると次第に制海権を失って行った。イングランドはこの後、徐々に力をつけ、1世紀ほど後の17世紀後半には海上を制するイギリス帝国へと発展していった。 カトリック信仰の防衛のためと称した異端審問や非キリスト教徒の迫害もスペインの国力を奪った。1609年には275,000人のモーロ人を国外に追放し、アラゴンの農業とバレンシアの経済は壊滅に陥った[9]。 フェリペ3世の頃には八十年戦争でネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)が事実上独立。スペインは貿易や産業で重要な地域となっており、17世紀前半の世界経済の中心となるオランダを失った。 その後ハプスブルク家、カトリック国として三十年戦争(1618年 - 1648年)に介入したが、フェリペ4世の治世(1621年 - 1665年)において、オリバーレス公伯爵の改革は特権を守ろうとする貴族階級の抵抗に遭い、1640年12月1日にポルトガル革命でポルトガルが独立すると、ポルトガル王政復古戦争(1640年 - 1668年)が始まり、1640年5月、ポルトガルと同君連合を結ぶカタルーニャでも収穫人戦争(1640年 - 1659年)が勃発。1643年にオリバーレス公伯爵は更迭され、三十年戦争も敗退した。1659年には西仏戦争(1635年 - 1659年)の敗北でフランスとピレネー条約を締結し、ルシヨン地方などをフランスに割譲。スペインの「黄金時代」は完全に終わりを告げた。 ボルボン朝(ブルボン朝)の成立→詳細は「スペイン・ブルボン朝」および「ブルボン改革」を参照
18世紀に入るとハプスブルク家が断絶し、フランスのルイ14世は自らの孫、ブルボン家のフィリップをスペイン王にしようとした。ところがそれに各国が異議を唱えスペイン継承戦争が始まった。この戦争は12年に及び、1713年のユトレヒト条約でフィリップがフェリペ5世として即位することは承認されたが、イギリスにジブラルタルを割譲。さらに新大陸に於けるアシエント(奴隷供給契約)を譲り、海外での影響力は著しく低下した。その後、オーストリア継承戦争、7年戦争に参加するがイギリス、フランス、オランダなどの新興勢力の後塵を拝することとなった。 このように対外的には衰えを見せたスペインだが、国内では産業の成長が進んだ。また、1759年に即位したカルロス3世によって、ある程度の中興を果たしている。 近代半島戦争→詳細は「半島戦争」および「アメリカ大陸諸国の独立年表」を参照
フェルナンド7世の治世→詳細は「フェルナンド7世治世下のスペイン」を参照
イサベル2世の治世→詳細は「イサベル2世治世下のスペイン」を参照
民主主義の六年間→詳細は「民主主義の六年間」を参照
王政復古→詳細は「スペイン王政復古」を参照
第一次世界大戦→詳細は「第一次世界大戦下のスペイン」を参照
第一次世界大戦において、スペインは中立政策をとった。大戦中のインフレーションは、貧民層の困窮化を深めさせ、労働運動が急速な高揚をみせた。1917年におけるロシア革命の成功は、労働運動をさらに刺激しただけでなく、カタルーニャやバスク地方における反専制・地域独立の意識を高めさせた。都市部、農村部を問わず各地で頻発していた暴動、要人テロは第一次大戦後も続き、深刻な政治的混乱が起こっていることは明らかだった。さらに、第一次大戦後のスペイン領モロッコにおける民族運動鎮圧に苦慮したことから(アンワールの戦い)、軍部の責任問題が浮上していた。 プリモ・デ・リベラの独裁→詳細は「プリモ・デ・リベラの独裁」を参照
こうした中、1923年9月にミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍がクーデタを起こし政権を握った。混乱の収拾を望む世論が強かったため、共産党や急進的な労働組合の一部が抵抗したものの、プリモ・デ・リベラ独裁政権の成立は総じて各層から容認された。あいつぐテロは収束し、労働者によるストやデモの件数も大幅に減少した。国内産業の保護・育成を進め、国道建設、鉄道の電化・複線化、エブロ川流域の開発など公共事業に力を注ぎ、経済発展を図った。この一連の政策がどれだけの成果を収めたかは評価が分かれる。 しかし、プリモ・デ・リベラ独裁は第一次大戦直後の混乱を乗り切るための暫定的措置として支持されたにすぎず、その独裁が長期化の様相を示すと反独裁の動きが各地で高まった。左翼勢力、地域主義政党の活動が強まり、軍内部でもプリモ・デ・リベラ独裁に反発する動きがみられた。さらに、1927年より始まる通貨危機は、経済界のプリモ・デ・リベラ支持も失わせることになった。こうして1930年にプリモ・デ・リベラは退陣へと追い込まれ、新たにダマソ・ベレンゲル将軍が首相の地位についた。プリモ・デ・リベラ独裁政権の崩壊は、王制打倒を目指す共和派を勢いづけた。共和派や地域勢力はサン・セバスティアンで協定を結び、革命委員会を発足させた。1930年末の革命運動は失敗に終わったものの、1931年選挙において都市部で革命勢力は躍進、民衆の共和政を求めるデモが各地で起こった。カタルーニャなどの地域運動も高揚した。こうした中、国王アルフォンソ13世は退位へと追い込まれたことで無血革命が成功し、第二共和政が成立した。 現代第二共和政→詳細は「スペイン第二共和政」を参照
王制打倒後に成立した新政府は、社会労働党の主導で労働者・貧農に対する政策を打ち出したほか、カタルーニャの自治政府を容認し、軍改革も行った(同時期は改革主義の二年間 (Bienio Reformista) と呼ばれる)。ただし、急進的な労働組織であるCNT(全国労働連合)が行ったゼネストに対しては武力鎮圧を行った。このため、CNTは政府との対立姿勢を強めることになった。社会化条項、宗教条項(政教分離の徹底)などの内容を含む左翼的な新憲法が成立し、第二共和政の初代大統領にニセト・アルカラ=サモラが就任した。(アルカラ=サモラは政権中では保守的な立場をとり憲法にも否定的だった。彼が大統領に就任したのは、政権内における左派・右派の均衡を図る狙いもあった。)大統領は、首相にマヌエル・アサーニャを指名した。 アサーニャは、就任当初から様々な困難に直面した。失業者の一部は急進的な労働組合のもとで激しいデモを繰り返した。左派・右派間のテロも続発するなど、治安の悪化は深刻な問題となった。また、軍改革を行ったとはいえ、革命以前の軍内部における実力者はその地位を保っており、政府の力となるべき軍が反政府的な姿勢をとる懸念もあった。政教分離をすすめ脱カトリックを図ったが、敬虔な農民の支持を失うことにもなった。右派勢力の組織化も進み、1933年にはカトリック右派がCEDA(スペイン独立右翼連合)を結成、さらにプリモ・デ・リベラの息子であるホセ・アントニオがファランヘ党を結成した。急進的左派のCNT(全国労働連合)も同年にカタルーニャとアンダルシアで大規模な暴動を起こし、これをアサーニャ政権が厳しく鎮圧したことから左派勢力の一部が離れた。こうした混乱を受けてアサーニャは退陣、次の首相のアレハンドロ・レルー・ガルシアも1ヶ月ほどで退陣した。大統領のアルカラ=サモラは議会を解散して総選挙にでたが、CNT(全国労働連合)は議会政治によらない武力革命を主張したため、左派支持者の一部は選挙をボイコットした。 選挙結果は右派の勝利に終わり、再度レルーが首相に就任すると、CEDA(スペイン独立右翼連合)に迎合した政策をとるようになり、それまでの左翼的な諸改革は改められた(同時期は暗い二年間 (es:Bienio Negro) と呼ばれる)。収拾のつかない政治的混乱は議会制民主主義への失望を招き、ファシズム政権の樹立を待望する主張が強まっていった。左派、右派ともに急進化が進み、さらに地域自立の動きは混沌に拍車をかけた。しかし、1935年のコミンテルン第7回大会において、人民戦線戦術(反ファシズムの統一戦線)が採択されたことは、左派勢力の再結集を促した。当時の右派勢力の足並みが乱れていたこともあり、左派の巻き返しが進んだ。こうした中行われた1936年選挙では左派が圧勝、人民戦線政府が成立した。 スペイン内戦→詳細は「スペイン内戦」を参照
人民戦線政府の成立後も政治的混乱は続き、都市部ではストライキ、農村部では貧農による暴動が続いた。こうした中、議会はアルカラ=サモラ大統領を解任し、かつて首相をつとめたマヌエル・アサーニャが大統領に就任したが、事態は悪化する一方であった。こうした中、1936年7月にスペイン領モロッコへと遠ざけられていたフランシスコ・フランコ将軍がクーデタを起こし、各地で右派による反乱が勃発、スペイン内戦へと突入した。フランコ率いる反乱軍はドイツ(ヒトラー政権)とイタリア(ムッソリーニ政権)のファシズム政権から支持を受けて戦いを有利に展開した。一方、人民戦線側はソビエト連邦から支持を受けたものの、イギリス・フランスは不干渉政策をとったために劣勢が続いた。国際義勇軍である国際旅団が各国から集まって人民戦線を支援したが、1939年にはマドリードが陥落、フランコ側が勝利を収めた。 フランコの独裁→詳細は「フランコ体制下のスペイン」および「第二次世界大戦下のスペイン」を参照
フランシスコ・フランコは、1937年に自ら組織するファランヘ党の総統となった。1939年、内戦終結後は国家元首として、その独裁は彼の死1975年まで続いた。フランコ政権はその成立時からドイツ、イタリアのファシズム政権から支援を受け、ファランヘ党の一党独裁、軍隊と秘密警察による厳しい支配を行った。 1939年に始まる第二次世界大戦では、ヒトラーの要請にもかかわらず、スペインは枢軸国に入って参戦しなかった。しかし大戦中には情報面で枢軸国に便宜を図るなど協力していた。大戦終結後に成立した国際連合は、1946年12月の国連総会で、スペインをファシストの国として国連から排除する決議を採択、フランコ政権は国際社会から孤立する。 一方、戦後は東西対立、いわゆる冷戦が進行し、1950年には朝鮮戦争が勃発する。これをきっかけに、西側諸国は反共産主義という点でフランコ政権との関係の修復を模索する。1953年9月に、アメリカ合衆国はスペインと米西防衛協定を締結。1955年にスペインは国連に加盟。1958年には国際通貨基金に加盟する。 1975年、フランコ死去。遺言によりフアン・カルロス1世が即位。独裁は終わりを告げる。 民政移管→詳細は「スペインの民主化」を参照
フアン・カルロス1世は即位後フランコの独裁を継承せず、立憲君主制の下で民主化(1975年–1982年)と欧米諸国との協調を進めるようになった。
現在のスペイン
年表
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク |