カーゴルックス航空
カーゴルックス航空(カーゴルックスこうくう、Cargolux Airlines International S.A.)は、ヨーロッパのルクセンブルク大公国を拠点とする国際貨物航空会社である。発音は「カーゴラックス」「カーゴラクス」ともいう。 概説首都ルクセンブルク空港から欧州内をはじめ、中東、アフリカ、アジア・オセアニア、北米、中南米を隈なくネットワークしている。 また、イタリアに子会社のカーゴルックス・イタリアが存在している。 1987年に日本経済新聞が記事で取り上げた際には既に欧州最大の航空貨物会社と紹介されている。ルクセンブルクは地理的に見て欧州の中心にあり、アメリカ、日本、東南アジアからの貨物を同地に集結し、そこから各地へトラック便で配送する仕組みであり、ドイツ(当時は西ドイツ)やフランスなど大国への近さを売りにしていた。また、ルクセンブルク空港が貨物便にとって使いやすい空港であったことも同社が本拠を置き続けている理由のひとつであると言う[1]。 歴史1970年3月にルクスエア、Loftleidir Icelandic他幾つかの投資家によりルクセンブルクで設立された。1970年5月に運行を開始したが、当時はカナディアCL-44の貨物型1機で、ルクセンブルク-香港便を飛ばしていた。その後2年間で会社は成長し、認知されていく[2]。 1973年、カーゴルクスは5機のCL-44を保有し、更にダグラス DC-8を取得してジェット時代への対応を図った。これにより、同社は高速貨物輸送が可能となった[3]。1974年、アイスランドを本拠とするLoftleidirはカーゴルクスと機材整備と技術部門を合併した。その後1975年にカーゴルクスは新しい本社施設と二棟の格納庫を享受した[4]。 1978年、同社は今日の業態をはじめた。カナディアのCL-44は退役し、初めてボーイング747が発注された。同年、他の機材によってアジア便が開設され、同様にアメリカ便も開設された。1979年には、創業10年を目前として、最初のボーイング747が納入された[5]。 1982年、チャイナエアラインはカーゴルクスと戦略的提携関係を結んだ最初の会社となった。1983年、CHAMP (Cargo Handling And Management Planning) を導入し、数機の旅客チャーター便を、ハッジ巡礼のため運行開始した。 1984年、最後のDC-8が同社の運用機材より外れ、3機目のボーイング747が加わった。ルフトハンザは1987年に同社の24.5%の株式を購入したが、一方でルクスエアは保有株式を24.53%まで増加させた。1988年、Lion Airが誕生し、旅客チャーター便をカーゴルクス、ルクスエアと共同で開設した。同社は2機のボーイング747を保有していたが、カーゴルクスのチャーター便業界への新規参入は不成功に終わり、その後Lion Airは清算された。 1985年10月23日、福岡空港へ初の日本便を乗り入れする。 上述のような業容後退にもかかわらず、カーゴルクスは1990年代には健全な財務状態を構築した。2機のボーイング747を1990年に追加調達し、創業20年を祝す証とした。その後1993年には、3機のボーイング747-400Fがルクセンブルクに到着した[6]。1995年、カーゴルクスは創業25周年を迎え、年間を通じ祝賀を行い、Heiner Wilkensを最高経営責任者(CEO)兼社長に任命した。 1994年7月2日、日本での乗り入れ先を福岡空港より小松空港に変更した。開港したばかりの関西国際空港への乗り入れも検討したが、森喜朗など石川県側の誘致活動もあり、小松となる(詳細は別節で説明)。 1997年、ルクスエアは株式を34%まで買い増しし、その間の同年9月ルフトハンザは24.5%の株式をSair Logistics とルクセンブルクの会社と共同で設立したSwiss Cargoに売却した。1998年、Sair Logisticsは株式を33%まで買い増した。 1999年以降、カーゴルクスの保有機材は747が10機に達したことで機数が2桁となった。2000年、韓国ソウル便を開設し、2001年にはWilkensはCEOと社長職を辞任することを決心した。 2005年 ボーイング747-8Fを発注。日本貨物航空と共に同機のローンチカスタマーとなる[7](その後の推移は別項を参照)。 2010年6月10日 子会社のカーゴルックス・イタリアは日本国国土交通省より外国人国際航空運送事業の認可を得た[8]。関空会社のリリースによれば同空港への発着便開設は地元関西経済界からの要請に応えたものである。使用機材はB747-400F[9]。6月13日、ミラノ→アルマトイ→関西国際空港→香港→アルマトイ→ミラノで日本初就航。総代理店はカーゴルクスである[10]。 2010年10月、カーゴルクスのチーフエグゼクティブが価格操作の容疑で告訴された[11]。2010年11月、カーゴルクスは欧州委員会により制裁金を課せられた[12]。 同社はルクスエアが筆頭株主(35.10%)であり、以下HNCA(35%)、Banque et Caisse d'Épargne de l'État(10.90%)、Société Nationale de Crédit et d'Investissement (10.67%)、Luxembourg State (8.32%)と続く。[13](2020年5月現在)。 2022年10月12日(現地時間)、B777-8Fを最大16機発注した(確定発注:10機・オプション:6機)[14]。B747-400Fの後継機として位置付けられており、正式に導入そして運用されれば、同社設立以来初めての双発エンジン貨物機となる。
保有機材2011年までは暫くボーイング747-400F単一機種運用されていたがボーイング747-8F導入以降は2機種による運用となっている。
B747-8F調達B747-8Fの導入に当たっては、ボーイングのWorking Togetherにより、詳細仕様をユーザーと共同で決定する提案をしており、これに応える形で日本貨物航空とローンチカスタマー同士での協力強化を発表している[7]。2007年3月19日のボーイングリリースで3機の追加発注、2機のオプションが加わり確定13機、オプション2機、購入権10機となった。747-400と比較して有償貨物搭載量は16%増、トンマイルコストは15%の低減となる[19]。 同社向け747-8Fは新デザインの塗装を施し、2010年6月7日、エバレット工場で公開された[20]。 2011年9月19日に、同社向けの歴史的初号機が納入される予定となっていた。当日はシアトル近郊のボーイングのエバレット工場で納入式典が行われ、同機を受領する予定だった。ところがボーイング社との間での契約において諸問題が発生した(製造された初期の機体の性能に問題あり)。このことで納入式典は中止となり、同社の関係者は会場から引き上げ、初号機の受領を拒否した[21]。さらに同月21日には、完成した2号機も引き渡される予定であったが、同機も受領を拒否した。その後ボーイングは同社と交渉を重ね10月に合意に達し、10月12日に一機目が納入された[22]。 導入計画2022年10月14日、ボーイング777-8F型機をボーイング747-400F型機の後継機として、10機を確定発注、6機がオプションとして最大16機発注することを決めた[23]。事前に開催されたファンボローエアショーで発注の意向を示していた。 就航地点日本路線1985年から福岡空港に貨物便を就航させていた。しかし日本便の貨物取り扱い量が伸び悩み、撤退も含めて再検討をしていた際、3000m級の滑走路がある他の拠点として小松空港に着目した。 同社が小松を拠点として選定したのは小松空港から東京・名古屋・大阪の3大都市圏までは1994年時点で次のような所要時間であり、比較的似た距離帯で結ばれていたからである[24]。
小松空港サイドは同社の受け入れに備え、第三セクターの貨物取扱い専門会社を設立し[24]、地元の衆議院議員でネオ・ニューリーダーの一人と目されていた森喜朗を押し立てて運輸省に陳情を行い[25]、1994年7月よりカーゴルックスは小松に移転した。 2003年の日経新聞の取材では、夜間に高速道路を使って荷物を運び、翌日には成田空港などで通関することが可能で、「保税輸送」での利点が大きいのだという。なお当時の日本への輸入品は精密機械部品、化学製品、ブランド品などであり、午後3時に着陸した後直ちに荷物を積み替え、夕方には離陸するという比較的タイトなスケジュールを組んでいる。貨物の取り扱いについても関東や関西の大空港と異なり、「専用空港に近い条件でスムーズに作業が出来る」ことが挙げられている[26]。 しかし朝日新聞によればカーゴルックス側の本音は関西国際空港への就航であり、同空港への枠を認めない国土交通省の姿勢に森を初めとする石川県の陳情、政治圧力を批判的に指摘されてもいる[25]。 2010年10月、北國新聞によれば、カーゴルクスは747-8Fの調達および、日本 - ルクセンブルク政府間で運行条件が見直されたのを機会に、小松発着の新路線開設のための協議を開始し、北米、香港などが新たに貨物輸送可能な寄港地として加わった[27]。 2018年3月28日には、成田国際空港へ新規就航し[28]し、同時に日本貨物航空とのコードシェアを開始した[29]。 日本便の取扱量推移当初は週2便、その後徐々に扱い量が増加し、2001年には3便から5便までの枠が認められ、2000年代前半には年2万トンを超す扱いがあった[30]。2004年にはこの5便枠一杯に増便を実施した[31]。リーマンショック以降は1万トンを切る水準まで落ち込み、その後の景気回復で再び増加に転じている[32]。この間、北陸自動車道が2000年に全線4車線化され、2008年には東海北陸自動車道が全通するなどアクセス性は更に改善された。また、小松空港の設備も貨物取扱施設を増強するなど、充実が図られていった。2010年の北陸中日新聞によれば輸出品としては欧州向け半導体製造装置などがあり、景気回復による恩恵ばかりではなく、成田空港発着エールフランス、日本貨物航空の貨物便が減少し、それらの受け皿となっていることも挙げられている[33]。 脚注
外部リンク
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