クーラ・シェイカー
クーラ・シェイカー(Kula Shaker)はイギリス、ロンドン出身のロックバンドである。1995年にメジャーデビューした。バンド名は9世紀のインドのクラシェクハラ王に由来する。 概要1960年代風ロックンロールにインド音楽がブレンドされた情緒的かつグルーヴィな東洋趣味的サイケデリック・ロックを鳴らし、ブリットポップブームの英国において一世を風靡した。その後ブームの終息とともにバンドは一旦解散するが、紆余曲折を経て2006年に再結成を果たした。 日本では、クリスピアン・ミルズ(ボーカル)の美麗なルックスとあいまって人気が爆発し、デビュー当時から現在に至るまで根強い人気を維持している。 メンバー現メンバー
元メンバー
歴史バンド結成リッチモンド・アポン・テムズ・カレッジの学生だったクリスピアンは、同じ学校に通っていたアロンザと意気投合し「ニュー・オリジナルス」というバンドを結成する。前後して、ポールとクリスピアンの従兄弟をメンバーに加えると、さらに同時期に知り合ったマーカス・マクレーンという人物のバンドと合流しバンド名を「ザ・クレイズ」と改名する。1990年のことであった。 ロンドンを中心にギグを行うようになるが、バンドは名前を都合4度も変更するなど流動的な状態であった。バンドが「ザ・ケイズ」名義の1992年頃にはマーカスと従兄弟のサウルが抜け、一旦活動を休止することになる。 この間、クリスピアンは10週間のインド旅行に出かけ、そこでインド文化や仏教・ヒンドゥー教などの東洋哲学に触れ、深い感銘を受ける(ここで出会ったドン・ペッカーという人物の手引きでグラストンベリー・フェスティバルの新人用ステージに出演するという幸運を得る)。 その後、「ニュー・オリジナルス」時代からの友人でサポートとして参加していたジェイを正式メンバーとして加えたバンドは、クリスピアンのインド文化への傾倒もあってバンド名を「クーラ・シェイカー」と改名、再スタートを切った。 デビュー~『K』期改名直後の1995年、マンチェスターの「イン・ザ・シティ 新人バンドコンテスト」において1位に選出され(同時1位としてプラシーボがいた)、これをきっかけにしてコロムビア・レコードとメジャー契約するとさっそくアルバム制作に着手。 そして翌年1月のプレ・デビュー盤「Tattva(Lucky 13 Mix)」に続く「グレイトフル・ホウェン・ユーアー・デッド」を4月に発表するとたちまち脚光を浴び、続く「タットヴァ」でブレイク。サード・シングルの「ヘイ・デュード」は全英2位、歌詞が全編ヒンディー語のマントラで構成されているライブアンセム「ゴヴィンダ」は全英7位を獲得した。当時、絶頂を極めつつあったブリットポップブームの波に乗ったバンドは、9月にデビューアルバム『K』をリリース。初登場1位をマークしたこのアルバムは、オアシス以来のデビューアルバム最速売り上げを記録し、全英でプラチナム・セールスを達成。加えて全米と日本でもそれぞれ25万枚を売り上げるなどの大きな成功を収め、瞬く間にして大躍進を遂げた。各地を精力的に回り、11月には初来日も果たした。 『ペザンツ、ピッグス&アストロノーツ』期〜解散ブリット・アウォーズ新人賞を受賞し一躍ブリットポップの寵児となったバンドは、勢いそのままにジョー・サウスのカヴァーである「ハッシュ」を全英2位に送り込み、すぐさま次作のアルバム・レコーディングを開始。 しかしこの時期、クリスピアンの「歌に込めた呪文が〜」、「ハルマゲドンが〜」などといった誤解を招く発言がプレスから叩かれ、さらに鉤十字(卍)にまつわる一連のコメントがナチス礼賛とされメディアによるバッシングを増幅させてしまう(クリスピアンは、この卍発言について、仏教において寺院を示す神聖な紋章である主旨のコメントを、不当に捻じ曲げて解釈され、スケープゴートにされたと反論している)。 バッシングが過熱する一方で、アルバムの制作も難航を極めた。完璧主義者であるクリスピアンは何度もレコーディングをやり直し、PVについても撮り直しを指示。結果、莫大な資金を投じて1999年にセカンド・アルバム『ペザンツ、ピッグス&アストロノーツ』がリリースされた。スピリチュアルなコンセプトをより推し進め、東洋哲学をとことん追求した深遠なサイケ作品に仕上がったこのアルバムは、「サウンド・オブ・ドラムス」などのヒット・シングルを生み、全英9位に入ったものの、前述のバッシングの影響や、終息したブリットポップブームへの反動もあってか、全英での売り上げは約10万枚と商業的には前作ほどの成功を収めることができなかった。しかしながら日本においては、アルバムは14万枚もの売り上げで大ヒットを記録。セールスが日英で逆転する珍現象が起きていた。 これまでのバッシングに加えアルバム制作への出費がかさみ、機能不全に陥ったバンドは9月に解散を発表。デビューからわずか3年という短い期間でロックのメインストリームから姿を消してしまうのであった。 その後~ザ・ジーヴァズ期解散後、バンドのメンバーはそれぞれの音楽活動を開始。ジェイはオアシスのサポート・キーボーディストに迎えられ、ポールはブライトンの音楽学校で講師を務め、アロンザはジョニー・マー、ザック・スターキーと3人で「ジョニー・マー&ザ・ヒーラーズ」を立ち上げた。 クリスピアンはロビー・ウィリアムズとツアーするなどのソロ活動を経て、2002年に3ピースバンド「ザ・ジーヴァズ」を結成。クーラ・シェイカー時代のインド志向を廃したシンプルなギターロックを展開する。 再結成〜『ストレンジフォーク』期2005年の春頃、クリスピアンのもとに「『School Braja』というチャリティーアルバムにクーラ・シェイカー名義で新曲を収録してくれないか」という依頼が舞い込む。それを受けて、元のメンバーに打診したところ、ジェイ以外のメンバーでバンド復活が実現する(ジェイはオアシスでサポーターとして活動)。当初は限定的な再結成の予定だったが、アロンザ曰く「長い間一緒にやっていなかったのに、すべてが元通りになってうまくフィットしたんだよ」という自然な成り行きで「クーラ・シェイカー再結成」が正式発表された。ジェイの後任には、クリスピアンの従兄弟の紹介でハリーが加入。 再始動を飾るかのように2006年のフジロックフェスティバルにレッド・マーキーのトリにて出演。来日直前にリリースした5曲入りミニアルバム『リヴェンジ・オヴ・ザ・キング(王者の逆襲)』は、洋楽EPとしては異例の日本国内盤約1万枚のセールスを記録し、フジロックでは入場規制が布かれる盛況ぶりだった。 日本での復活ライブを大成功させたバンドはさっそく新作の制作に着手。しかしプロデューサーやアロンザの家族が立て続けに病気に見舞われたことでたびたびレコーディングが中断されてしまう。そのため予想以上の時間を要し幾度かの発売延期を繰り返しながら、翌2007年6月に日本先行で、8年振りとなるサード・アルバム『ストレンジフォーク』が自主レーベルからインディーズ作品として発表された。 『ピルグリムス・プログレス』期2010年、4作目のアルバム『Pilgrim's Progress』を発表。チャートでは全英トップ100には入らなかった一方、日本ではオリコン37位を記録し、日本での根強い人気を見せた。 7月、3年ぶりとなるフジロックに出演。 その後2016年にアルバム『K 2.0』をリリースし、同年11月に『K』の完全再現をうたった来日公演を行った。 2022年にアルバム『ファースト・コングリゲイショナル・チャーチ・オブ・エターナル・ラヴ・アンド・フリー・ハグス』を発表、夏にはサマーソニックで来日した。同年12月にジェイが復帰し、2023年2月にオリジナルメンバーで来日公演を行った。2024年2月にアルバム『ナチュラル・マジック』を発表し、同月にちょうど1年振りに来日公演を行う。 ディスコグラフィー→詳細は「クーラ・シェイカーの作品」を参照
オリジナル・アルバム
ベスト・アルバム
シングル以下の順位は全て全英チャートによる
EP
日本公演
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