コシヒカリコシヒカリは、日本のイネの品種名およびそこから獲れる米の銘柄名[注 1]。科学的にも種苗法上でも[1]コシヒカリとは異なる品種であるコシヒカリBLも「コシヒカリ」との銘柄で販売されている。 日本のうるち米作付面積のうち最大(2020年産で33.7%)の品種である[2]。 品種特性コシヒカリという品種は1つであるが、コシヒカリという銘柄(消費者が買う段階の商品名)にはコシヒカリ(品種)と多数の品種を含むコシヒカリBLという品種群が含まれる。現在、「新潟県産コシヒカリ」という銘柄は、9割以上がコシヒカリBLという品種群であり[3]、コシヒカリ(品種)とは異なる。 コシヒカリ(品種)は、東北地方以南の日本各地で栽培される品種である[4]。1956年(昭和31年)、水稲農林100号「コシヒカリ」として命名登録された[5]。1979年(昭和54年)から作付面積1位を続け、2016年には作付比率36.2%であった[注 2]。 粘りが強い食感で食味に優れる品種であるが、栽培上は倒伏しやすい、いもち病などに弱いなどの欠点も併せ持つ[7]。新潟県魚沼地域がコシヒカリBLの一大産地として広く知られており、全国に出荷される。魚沼産は1989年産から2016年産にかけて日本穀物検定協会による食味ランキングで、最上位である「特A」の格付けが維持されていた[8][9]。近年では海外での日本食ブームもあり、アメリカ合衆国カリフォルニア州でもコシヒカリの栽培が行われている。 コシヒカリと言う名前は、越前、越中、越後などの国々を指す「越の国」と「光」の字から「越の国に光かがやく」ことを願って付けられた。名付け親である元旧新潟県農業試験場長の国武正彦が「木枯らしが吹けば色なき越の国 せめて光れや稲越光(冬には雪に閉ざされてしまう越の国にあってコシヒカリが越の国を輝かせる光となりますように、の意)」と、和歌に詠んだことによる[10]。 育成経過1944年(昭和19年)に、新潟県農業試験場の高橋浩之により「農林22号」を母、「農林1号」を父とした交配が行われたが、この雑種は第二次世界大戦下の状況悪化のため翌年の栽培は見送られた。 1946年(昭和21年)、戦争終了後、育種事業が再開され、前述の雑種(雑種第一代)の栽培が行なわれた。この年の11月に高橋は転出したため、この交配組合せの育成は、仮谷桂と池隆肆に引き継がれた。1947年(昭和22年)には、雑種第二代の栽培と選抜が行なわれた。選ばれた雑種第三代の種子の一部(20粒とも伝えられる)は、福井農事改良実験所(現:福井県農業試験場)に送られ、石墨慶一郎と岡田正憲を担当として育成が行われることになった。この系統はぬかるんだ湿田にも適しており、1948年6月に起きた福井地震による水田の液状化現象被害でも生き残った[2]。 福井県での1948年(昭和23年)から1952年(昭和27年)までの育種の結果、有望な2系統が育成され、「越南14号」「越南17号」の系統名が与えられた。収量が多い越南14号[2]は後に「農林91号」として登録され「ホウネンワセ[2]」の品種名がついた。 1953年(昭和28年)から「越南17号」について、20府県での適応性試験が行なわれた。結果は茎が弱く倒れやすい、穂首いもちに弱い、未熟粒(青米)が多い、収量も多くないなど、否定的な結果が多いものであった。 育成地の福井県でも、奨励品種採用が見送られたほどの成績であったが、熟した時の色や米質の良さに石墨らが注目して試験栽培が続けられ、他府県にも提供された経緯がある[2]。越南17号を救ったのは、採用県の新潟県とそれに賛同した千葉県であった。1955年(昭和30年)に越南17号は、新潟県・千葉県の奨励品種となる。新潟県が奨励品種としたのは、当時の主要品種である農林21号よりも葉いもち耐性が優れ、収量が安定しており、米質も農林21号と同じく非常に優れていたためである[7]。また、農家が肥料を与えすぎる傾向があり、そのため草丈が伸びてイネが倒れてしまいやすい事から、あえて多肥栽培に向かない、作りにくい品種を選びそれを解決しようとしたためとも言われている。倒伏しても茎がしっかりしていたという観察結果も後押しとなった[2]。 こうした経緯から、新潟県農業総合研究所(長岡市)には「コシヒカリ記念碑」が、福井県立農事試験場跡(福井市)には「コシヒカリ育成の地」碑がそれぞれ建てられている[2]。 一方で有機農法を推進する立場からは、多肥栽培に向かない=有機肥料に向かない、病虫害に弱い=農薬の大量散布が必要、という観点から、批判する意見もある。 新潟・千葉の2県での奨励品種決定を受けて、福井県では越南17号の命名登録を行なうことになった。福井県側から、新潟県側に命名の依頼が行なわれた。新潟県は、両県がかつて含まれていた「越国」(こしのくに)に因み、「越の国に光輝く米」と言う願いを込めて「コシヒカリ」と命名した。コシヒカリは、1956年(昭和31年)に農林登録され、農林品種としては農林100号の番号がついた。後に、育成者の代表として石墨は、日本育種学会賞や農林大臣賞を受賞している。 「農林22号」と「農林1号」との交配によって産まれた水稲品種にはコシヒカリとハツニシキがある。ササニシキは、ハツニシキに多肥において倒伏しても稈が折れない性質をもったササシグレ[12] を交配し、その耐倒伏性を少しだけ改善した品種である[13]。つまり、コシヒカリとササニシキは親戚同士にあたる品種である。
日本各地への普及日本穀物検定協会による平成20年度の「米の食味ランキング」において最高の「特A」を得たコシヒカリの産地は、山形県の内陸部村山地方、最上地方、置賜地方、下越以外の新潟県の全域、福島県の会津、群馬県の北毛、長野県の東信地方、山梨県の峡北だった[15]。この内、新潟県の魚沼産が一番高値で取引されている[16]。すなわち、食味の良い産地は新潟県周辺の内陸部に集中しているが、これらの地域では夏季にフェーン現象などで昼間に高温になりながらも夜間は熱帯夜になりづらいという気候の特徴が共通している。また近年では、誕生した福井県産も最高ランクを立て続けに獲得している。 これらの「特A」産地以外では、栃木県が1957年にコシヒカリの耐冷性に注目し、県北部での普及品種として採用した。また、鹿児島県(1960年)や宮崎県(1961年)では、早期栽培用の品種として採用するなど、南東北から南九州までコシヒカリの栽培地は広がっている。高温下でも外観品質が低下しないこと(但し熱帯夜により夜間の気温が30℃を超えたままの日が続くと出穂後の実入りが悪くなる)、および穂発芽(多雨や倒伏による浸水で穂のまま発芽してしまうこと)への抵抗性が非常に強いことが、コシヒカリが広く普及した理由である。福井県での採用は遅めの1972年である。 なお、コシヒカリと掛け合わせることで、新たな品種の育成が各地で多数試みられている[17]。代表的な品種として、あきたこまち[18]・ヒノヒカリ[19]・ひとめぼれ[20]・森のくまさん[21]・はるみ[22] がある。 コシヒカリの生育特性一例として、福井県でのコシヒカリの栽培時期を示す。
注)登熟期間の開始日は、出穂期+10日目の日としている。 コシヒカリBL→詳細は「コシヒカリBL」を参照
コシヒカリBLとは、いもち病に抵抗性を持つように改良された新たな品種群である。BLとは、いもち病抵抗性系統の意味であるBlast resistance Lines(ブラスト・レジスタンス・ラインズ)の略。新潟県で育成・栽培されるコシヒカリ新潟BL1号〜12号の12品種が嚆矢である。2005年から新潟県で作付けされるコシヒカリのほとんどがコシヒカリBLである。なお、富山県でも独自のコシヒカリBLを育成している[17]。 関連品種祖先品種姉妹品種(同世代)いずれも「農林22号」×「農林1号」の交配組合せ。 子品種(+1世代)一覧については「コシヒカリを親にした品種一覧」[17] を参照。
孫品種(+2世代)以下、交配組合せは「種子親×花粉親」の順である。
曾孫品種(+3世代)
玄孫品種(+4世代)
来孫品種(+5世代)
その他コシヒカリを題材にした楽曲
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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