サクラホクトオー(欧字名:Sakura Hokuto O、1986年4月3日 - 2000年3月16日)は、日本の競走馬、種牡馬[1]。
1988年の朝日杯3歳ステークス(GI)を制し、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬に選出された。その他の勝ち鞍に1989年のセントライト記念(GII)、1990年のアメリカジョッキークラブカップ(GII)。貴公子[3]や雨男[4]と呼ばれた。
1歳上の半兄に1987年の朝日杯3歳ステークス、1988年の東京優駿(日本ダービー)を制したサクラチヨノオー(父マルゼンスキー)がいる。
概要
1988年10月、東京競馬場での新馬戦でデビューし1着。続くオープン特別の府中3歳ステークスも1分48秒6のレコードタイムで勝利し、12月中山競馬場での朝日杯3歳ステークスでは単枠指定を受けて[5]、それに応えて3連勝を飾り、前年に朝日杯3歳ステークスを制した半兄サクラチヨノオーに続いての兄弟での同一G1連覇を達成した。JRA賞選考でも、1988年度のJRA賞最優秀3歳牡馬に選ばれた。
明けて4歳、初戦は3月の弥生賞であり2戦連続で単枠指定されたものの[6]、レースでは不良馬場に難渋し12着。クラシック第1戦皐月賞でも単枠指定を受けたものの[5]、レースでは弥生賞に続いての不良馬場となり、20頭立てで競走中止の1頭を除く事実上の最下位に終わった[7]。主戦騎手の小島太は「サクラホクトオーという馬は、少しでも馬場が渋るとやる気を無くして、レースでも全く走ろうとしなくなってしまう」と述べている。クラシック第2戦の東京優駿では人気も5番人気に落ち、ウィナーズサークルの9着に終わる。東京優駿は良馬場発表ではあったものの、午前中こそ埃が上がるほどの乾いた馬場だったが、13時半頃に一時的に雨が降り、やや湿った馬場になっていた。秋はセントライト記念を制したのち西下して菊花賞を狙ったが、レースでは管理していた境勝太郎が「自分の馬を見失ったのはこの時だけ」と形容するほどの大外へのコース取りの末に5着[8]。暮れの有馬記念ではオグリキャップ、スーパークリークに続く3番人気に支持され、レースでは後方から競馬をしてイナリワンの3着に入った[9]。
古馬となった1990年、緒戦のアメリカジョッキークラブカップで単枠指定に応えて1着[10]。再度西下して産経大阪杯はスーパークリークとともに5度目の単枠指定を受けたが7着と振るわず[11]、天皇賞(春)では3番人気で迎えられるも14着に終わり、こののち長期休養に入って1991年春に復帰して京王杯スプリングカップと安田記念に出走したが2戦とも掲示板外に終わって引退した。[12]
競走成績
以下の内容は、JBISサーチ[12]およびnetkeiba.com[13]に基づく。
競走日 |
競馬場 |
競走名 |
格 |
距離(馬場) |
頭 数 |
枠 番 |
馬 番 |
オッズ (人気) |
着順 |
タイム (上り3F/4F) |
着差 |
騎手 |
斤量 (kg) |
1着馬(2着馬)
|
1988.10.08
|
東京
|
3歳新馬
|
|
芝1600m(良)
|
11
|
3
|
3
|
002.70(1人)
|
01着
|
01:36.9(48.7)
|
-0.3
|
小島太
|
53
|
(ボストンキコウシ)
|
0000.11.26
|
東京
|
府中3歳S
|
OP
|
芝1800m(良)
|
10
|
5
|
5
|
001.70(1人)
|
01着
|
R1:48.6(48.6)
|
-0.7
|
小島太
|
54
|
(マイネルブレーブ)
|
0000.12.18
|
中山
|
朝日杯3歳S
|
GI
|
芝1600m(良)
|
9
|
5
|
5
|
001.30(1人)
|
01着
|
01:35.5(35.0)
|
-0.3
|
小島太
|
54
|
(スクラムトライ)
|
1989.03.05
|
中山
|
弥生賞
|
GII
|
芝2000m(不)
|
16
|
2
|
3
|
001.40(1人)
|
012着
|
02:12.1(42.9)
|
-4.4
|
小島太
|
55
|
レインボーアンバー
|
0000.04.16
|
中山
|
皐月賞
|
GI
|
芝2000m(不)
|
20
|
1
|
1
|
003.00(1人)
|
019着
|
02:08.5(41.5)
|
-3.3
|
小島太
|
57
|
ドクタースパート
|
0000.05.28
|
東京
|
東京優駿
|
GI
|
芝2400m(良)
|
24
|
4
|
11
|
009.90(5人)
|
09着
|
02:30.2(50.3)
|
-1.4
|
小島太
|
57
|
ウィナーズサークル
|
0000.09.24
|
中山
|
セントライト記念
|
GII
|
芝2200m(稍)
|
9
|
8
|
8
|
004.80(3人)
|
01着
|
02:14.5(36.5)
|
-0.2
|
小島太
|
56
|
(スダビート)
|
0000.11.05
|
京都
|
菊花賞
|
GI
|
芝3000m(良)
|
18
|
8
|
18
|
011.60(7人)
|
05着
|
03:08.1(46.4)
|
-0.4
|
小島太
|
57
|
バンブービギン
|
0000.12.24
|
中山
|
有馬記念
|
GI
|
芝2500m(良)
|
16
|
7
|
12
|
012.60(3人)
|
03着
|
02:32.1(36.1)
|
-0.4
|
小島太
|
55
|
イナリワン
|
1990.01.21
|
中山
|
アメリカジョッキーCC
|
GII
|
芝2200m(良)
|
10
|
4
|
4
|
001.50(1人)
|
01着
|
02:13.8(36.6)
|
-0.2
|
小島太
|
56
|
(ランニングフリー)
|
0000.04.01
|
阪神
|
産経大阪杯
|
GII
|
芝2000m(稍)
|
9
|
5
|
5
|
003.20(2人)
|
07着
|
02:04.9(51.1)
|
-2.0
|
小島太
|
57
|
スーパークリーク
|
0000.04.29
|
京都
|
天皇賞(春)
|
GI
|
芝3200m(良)
|
16
|
6
|
10
|
007.00(3人)
|
014着
|
03:25.8(51.3)
|
-3.9
|
小島太
|
58
|
スーパークリーク
|
1991.04.21
|
東京
|
京王杯スプリングC
|
GII
|
芝1400m(良)
|
18
|
3
|
6
|
006.70(2人)
|
09着
|
01:22.4(35.2)
|
-0.9
|
小島太
|
58
|
ダイイチルビー
|
0000.05.12
|
東京
|
安田記念
|
GI
|
芝1600m(良)
|
16
|
5
|
9
|
010.20(4人)
|
015着
|
01:35.4(36.8)
|
-1.6
|
木藤隆行
|
57
|
ダイイチルビー
|
- 枠番・馬番の太字は単枠指定を示す。内容は日本中央競馬会『中央競馬全重賞競走成績』GI編[5]、3歳・4歳編[6]、古馬関東編[10]、古馬関西編[11]に基づく。
引退後
引退後は種牡馬となり、種牡馬としては8シーズンの供用で血統登録頭数200頭、そのうち出走頭数166頭を記録[14]。初年度産駒からサクラスピードオーが出て1996年の京成杯と共同通信杯4歳ステークスを勝ったが、中央と地方合算の総合サイアーランキングでは100位以内に入ることは一度もなかった[15]。その後、2000年3月16日に死亡[2]。墓は北海道静内町の新和牧場にある[16]。
主な産駒
血統表
出典・脚注
参考文献
- 『中央競馬全重賞競走成績集 GI編』日本中央競馬会、1996年。
- 『中央競馬全重賞競走成績集 3歳・4歳編』日本中央競馬会、1997年。
- 『中央競馬全重賞競走成績集 古馬関東編』日本中央競馬会、1997年。
- 『中央競馬全重賞競走成績集 古馬関西編』日本中央競馬会、1997年。
外部リンク
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(旧)最優秀3歳牡馬 |
1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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最優秀2歳牡馬 |
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- 1 2001年より馬齢表記法が数え年から満年齢に移行
*2 1954-1971年は「啓衆社賞」、1972-1986年は「優駿賞」として実施 *3 1986年は2頭同時受賞
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朝日杯3歳ステークス |
1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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朝日杯フューチュリティステークス |
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