サムハラ神社
サムハラ神社(さむはらじんじゃ)は、大阪府大阪市西区立売堀(いたちぼり)にある神社である。 概要祭神は天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神。「サムハラ」はこれら三神の総称であるとしている。奥の院が美作加茂(岡山県津山市)にある。 1935年(昭和10年)に田中富三郎が出身地の岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市)にて旧い小さなほこらの荒廃を嘆き再興したのが本社の起源。しかし翌年岡山県特高課から無許可神社で商品広告しているとして自主撤去を求められ、サムハラ信光会は11月27日に解消し、撤去を行った[1][2]。 戦後1946年(昭和21年)にほこらは再建され、当神社は大阪中之島の豊国神社隣接地に自費で1950年(昭和25年)に建立。1961年(昭和36年)に現在地へ移築遷宮された。 隣接地に大阪府警察の機動警ら隊がある。 2021年(令和3年)1月、禰宜を務めていた男が祈祷中に猥褻行為をした容疑で逮捕され[3]、同年6月には懲役2年執行猶予4年の有罪判決を受けた[4]。 建立者サムハラ神社を建立した田中 富三郎(たなか とみさぶろう)は、1868年(明治元年)3月3日に美作加茂で生まれる。万年筆業界の先駆者で「田中大元堂」を経営し、加茂西小学校に図書館を建設、奨学資金を贈るなど児童育成に貢献し紺綬褒章を授与される。 サムハラ大神をあつく信仰していたため日清戦争と日露戦争で数々の危難をまぬがれたという。サムハラの霊徳を世の人々に分かつため私財でサムハラ神社を建立したとされる。神前扉材は伊勢神宮より賜った。戦時中に兵士にお守りを贈る活動をしていたが、戦後も小判の形のお守りを自費で作成し無料で人々に配布していた。多くの要人にも贈呈をした。90歳までは自転車を乗り回すことも平易だった。97歳の時でも壮健であり自らを青年と称した。 「信仰は万益有って一害なし」と常に提唱し、毎朝の参拝を欠かしたことはなかった。田中は1967年(昭和42年)12月3日逝去。享年100。サムハラ神社境内に胸像がある。宮司は養子が継いだ。 祭礼
平野町護符所大阪市中央区平野町に宗教法人サムハラ神社収益事業部があり、施設の名称をサムハラ神社平野町護符所と称する。施設の入り口前にはサムハラ神社の授与品(お札・お守りなど)が展示されている。
関係のあった人物
サムハラについて当社では、造化の三神である天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神を総称してサムハラの大神と呼称し、無傷無病、延命長寿の神であると伝えている。 (サムハラ)[5][6]とは不思議の4文字で、身を守ると言われている。これは漢字のような文字であるが、神字であり漢字とは異なる、とされる。Unicodeには、のみが収録されておらず、活字変換は不可[注 1]。他の文字は全てCJK統合漢字拡張Cに収録されている。 東大寺(印西東大寺)(千葉県印西市)、雷山千如寺大悲王院(清賀上人により十転化の功徳があるという)など各地の寺社のお守りの呪文に使用されている。 サムハラの故事
その他
お守りをめぐるトラブルサムハラ神社では、御神環(ごしんかん)と称する指輪型のお守りを授与してきたが、希少価値があり入手困難ということもあってか、インターネット上で転売されるケースが相次ぎ、また、これを見た多数の参拝者が神社に押しかけてくる事態ともなった。これを受けて同神社では、参拝者への御神環の授与を中止する事態となった[18]。 参考文献
関連項目
脚注注釈出典
外部リンク
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