ジム・クロウ法
ジム・クロウ法(ジム・クロウほう、英語: Jim Crow laws)は、1876年から1964年にかけて存在した、人種差別的内容を含むアメリカ合衆国南部諸州の州法の総称。ジム・クロウ制度とも[1]。 概要主に「黒人の一般公共施設の利用を禁止、制限した法律」を総称していう。 しかし、この対象となる人種は「アフリカ系黒人」だけでなく、「黒人の血が混合している者は全て黒人とみなす」という人種差別法の「一滴規定(ワンドロップ・ルール)」に基づいており、黒人との混血者に対してだけでなく、インディアン(先住民)、ブラック・インディアン(インディアンと黒人の混血)、日系人などアジア系といった黄色人種などの、ヨーロッパ系の白人以外すなわち非白人の「有色人種」(Colored)をも含んでいる。 経緯南北戦争以前、北部州(共和党支持基盤)は「奴隷制廃止」を掲げていた。しかし、伝統的な南部11州(民主党支持基盤)は反対に「奴隷制維持」を掲げていた。 南北戦争終了後の南北統合期(リコンストラクション)初期、この対立の元に、合衆国軍占領下の南部11州は先手を打って、解放奴隷を抑圧して黒人の準奴隷システムを正当化するような「黒人法」(英語: Black Codes、黒人取締り法とも)を制定した。当時工業で発展し始めていた北部都市(デトロイト・シカゴなど)と異なり、南部では黒人労働力による農業が依然として経済の基礎であった。そのため、「黒人が白人と平等になっては困る」というのが、南部経済を支える有力な白人農園主たちの本音であったと考えられる。この黒人取締り法が、ジム・クロウ法の礎になっていった。 南部各州での「黒人取締り法」は制定直後、合衆国議会で1866年公民権法が成立したことによって廃止されたが、リコンストラクション後に連邦政府の干渉が少なくなった中、南部諸州では次々とジム・クロウ法が制定された。 1945年以降、公民権運動が高まるとジム・クロウ法に対して裁判闘争が行われ、1954年から1955年にかけて、連邦最高裁判所は、プレッシー対ファーガソン裁判で確立された「分離すれども平等(separate but equal)」という判例法理を覆し、公立学校における人種別学制度は違憲とする判決を下した(ブラウン対教育委員会裁判、Brown v. Board of Education of Topeka (Brown I) 347 U.S. 483, 74 S. Ct. 686, 98 L. Ed. 873 (1954)、Brown v. Board of Education of Topeka (Brown II) 349 U.S. 294, 75 S. Ct. 753, 99 L. Ed. 1083 (1955))。1964年7月2日、リンドン・ジョンソン政権は公民権法 (Civil Rights Act) を制定し、南部各州のジム・クロウ法は即時廃止となった。 名の由来ジム・クロウという名は、ミンストレル・ショー(Minstrel Show、白人が黒人に扮して歌うコメディ)の1828年のヒット曲、『ジャンプ・ジム・クロウ』(Jump Jim Crow) に由来する。 コメディアンのトーマス・ダートマス・ライス(Thomas Dartmouth "Daddy" Rice) が演じて人気を博し、顔を黒塗りして黒人に扮するブラックフェイス・パフォーマンスを全米に広めた。ジム・クロウは田舎のみすぼらしい黒人を戯画化したキャラクターであり、着飾った都会の黒人であるジップ・クーン (Zip Coon) とともにミンストレル・ショーの定番キャラクターとなった。 1837年までに、ジム・クロウは黒人隔離を指す言葉としても使われるようになっている。 州法の例
関連項目脚注
|