ジョージ高野
ジョージ高野(ジョージたかの / George Takano、1958年6月23日 - )は、日本のプロレスラー、元大相撲力士。本名:高野 讓治(たかの じょうじ)。福岡県北九州市出身。 ザ・コブラ(The Cobra)のリングネームで覆面レスラーとしても活躍した。大相撲時代の四股名は高野(たかの)。 プロレスラーの高野拳磁は弟、全日本プロレスに短期間在籍した高野直樹は従兄弟[1]。 来歴デビュー前父親は岩国基地に所属していた黒人のアメリカ海兵隊員で、隊内のボクシング王者にもなっている。しかし、父親は妻子を日本に残したままアメリカに帰国。母子家庭で育ち、混血児ということもあって少年時代には差別やイジメを受けた。大相撲の大鵬部屋に15歳で入門し、1974年3月場所で初土俵を踏むが、1976年1月場所では番付外となり、そのまま廃業する。最高位は序二段34枚目。 新日本プロレス大相撲廃業後、1976年8月に新日本プロレスへ入団。1977年2月10日、日本武道館の佐山聡戦でデビューし、時間切れ引き分けに終わる。プロレスラーとしてデビューする前から、特撮テレビドラマ『プロレスの星 アステカイザー』に主人公のライバル役として出演しており、菅原文太の誘いを受けて本格的に芸能界入りを目指したが、プロレスへの情熱が断ち切れず、1978年6月に再び新日本へカムバックして[2]、10月13日の平田淳二戦で再デビューする。同時期にデビューした平田・前田日明・斎藤弘幸らと同期扱いされることもあるが、実際には佐山と同期である。 アフリカ系アメリカ人との混血という出自と抜群の運動能力、そしてハンサムな顔立ちで若手の注目選手となり、新日本プロレスの次代を担うエース候補の最右翼に挙げられた。ライバル視されていた前田とは、若手時代に35勝1敗15分けと大きく勝ち越しており、前田は「新日本プロレスの歴史上、最も素材が良く素質もあったのは間違いなくジョージ高野だった」と言う。初代タイガーマスクの「スペース・フライング・タイガー・ドロップ」の開発者は高野であり、ムーンサルト・プレスを開発し初めてリングで披露したのも高野である。当初はタイガーマスクの候補としても名前が挙がったが、新間寿によると「高野では背が高すぎてしまう」という理由で実現には至らなかったという[3]。 1982年1月にメキシコへ遠征。2年連続で最優秀外国人選手に選定されるなど活躍した。1983年にはカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに転戦、自身のヒール志向もあって、将軍KYワカマツをマネージャーに迎えて覆面レスラーのザ・コブラとして活動。ダイナマイト・キッド、ブレット・ハート、デイビーボーイ・スミスらと抗争を展開し、同じく海外武者修行中だったサニー・ツー・リバーズこと平田淳二や弟の高野俊二とも対戦した[4]。9月2日にはブルース・ハートを破り、英連邦ヘビー級王座を獲得[5]、タイトル初戴冠を果たしている[6]。 1983年夏、初代タイガーマスク突然の引退によって、ジュニア戦線の後継者として凱旋帰国を促されるも一度は辞退。その後、師匠アントニオ猪木の説得により帰国を決意、11月3日の日本デビュー戦でNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得した[7]。その後もザ・コブラとして、ジュニア戦線のトップとして活躍した(後述)。しかし、常にタイガーマスクと比較される宿命を負ったことに加え、猪木と同等の体格である高野がジュニアヘビー級戦士として活動するのは無理があり、1986年6月にコブラは姿を消した後、素顔のジョージ高野に戻ってヘビー級戦士として「凱旋」。凱旋試合では後楽園ホールの2階席からスポットライトを浴びて登場し、テレビ放映もされた。しかし、その後はタイトル戦線に絡むことがなく、活躍の機会には恵まれなかった。 1989年にスーパー・ストロング・マシンとタッグチームを結成し、高野自らが発案した烈風隊なるチーム名で活動。3月16日に長州力&マサ斎藤を破り、IWGPタッグ王座を獲得した[8]。ヘビー級転向後初のタイトルであったが、7月13日に長州&飯塚孝之に敗れて陥落[8]。その後、烈風隊は目立った活動が見られないまま自然消滅する。 1990年2月10日、東京ドームでの全日本プロレスとの対抗戦で長州とタッグを組み、天龍源一郎&2代目タイガーマスクと対戦し、真っ向からのストロングスタイルでインパクトを残すも、キャリアで8年も後輩である武藤敬司・蝶野正洋・橋本真也の闘魂三銃士をエースにする路線が確立したため、新日本プロレスでの将来に見切りをつける。 SWS1990年4月27日のNKホール大会でマシンvsコブラがマッチメイクされたが、高野は4月1日に新日本プロレスからSWSへ移籍する。SWSでは当時「部屋別制度」という画期的なシステムが設置され、それを元に3つの道場が設立された。高野は弟で全日本プロレスに移籍していた高野俊二(現・高野拳磁)らの主に元新日本勢と『パライストラ』を結成し、ジョージは道場主(エース)となる。旗揚げ戦のメインイベントにおけるタッグマッチでは、『REVOLUTION』の道場主で団体のエースでもある天龍源一郎からピンフォール勝ちを奪う活躍を見せた。 NOW - PWC - FSR1992年のSWS解散後、ケンドー・ナガサキたちとNOWを旗揚げするも、旗揚げ戦後にジョージと俊二は離脱し、2人で同年にPWCを設立。しかし、翌年にジョージは離脱。1995年に妻の実家がある北海道釧路市で、プロレスと格闘技の融合および闘魂伝承(後進の発掘と育成)を目的としたFSRを設立し、旗揚げ戦にはタイガーマスク(佐山サトル)が来場。しかしFSRは選手がジョージと若手しかいなかったことと釧路という立地条件の悪さもあり、1997年に活動を停止。その後は故郷である九州に戻り、リングから離れた。 フリー2001年4月18日、プロレスリングZERO-ONEの日本武道館大会で星川尚浩を相手にリングへ復帰、覆面を被りザ・コブラの名前で参戦した。体重はかつての細身の筋肉質な身体とは見違えるほどに脂肪太りしていた。それでもきっちりとムーンサルト・プレスを決めるなど、天性の身体能力の高さをうかがわせ、ゲスト解説の馳浩をはじめ、見る者を驚かせた。以後、同団体に数回参戦。同年の第1回「火祭り」にはジャスティン・マッコリーの代打として、ジョージ高野の名で覆面を被ったまま参戦。同じブロックの田中将斗と両者リングアウトで引き分けただけの2敗1分に終わった。 2002年4月24日、新日本プロレスの西日本総合展示場大会において「30周年スペシャルマッチ」として素顔で登場。SWS移籍後、初めて古巣のリングに上がり、蝶野正洋と組んで中西学&吉江豊から勝利を収めた。ジョージ高野としては、この試合を最後にリングに上がっていない。同年10月13日に東京ドームホテルで開かれた「新日本プロレス創立30周年記念パーティー」ではOBとして壇上で挨拶した。 2004年3月に別冊宝島の企画で受けたインタビュー[9] で語った所によると、外壁の施工工事の仕事に関わっている事や、レスラーとしての活動はほとんど出来ていないが引退はしていない事、FSRは活動を休止しているが消滅はしていない事を語り、同年7月10日PWCプロモーション博多スターレーン大会では、初代タイガーマスクと組んで維新力・折原昌夫組と対戦した。 2007年10月4日放送のアメトーーク!(ANN系列)「昭和プロレス芸人」の放送の中で、現在は電柱を埋める仕事に就いていることが伝えられた。12月7日にイノキ・ゲノム・フェデレーション公式サイトで「猪木ミニ・ミュージアム」の館長に就任したことが発表されている[10]。またNPO法人設立などを経て、2009年に福岡市にあるシステム開発会社の統括ジェネラルマネージャーに就任している[11]。 正式にマッチメイクされたものではないが、2012年7月27日に行われた「森谷俊之さんを送る会」のバトルロイヤルにザ・コブラとして乱入している[12][13]。また、2013年7月26日の「バトルエイド15」に、ザ・コブラでも本名でもない「ジョージ高野マスク」なるマスクマンとして出場。8人タッグマッチで戸井克成からギブアップを奪っている[14]。 2018年4月20日・21日のドラディション2日間大会において、約16年ぶりにザ・コブラとしての出場を果たし、軽快な動きでファンを沸かせた。 ザ・コブラザ・コブラ(The Cobra)は、かつてジョージ高野が名乗っていた覆面レスラーのリングネーム。リングネームの由来は、メキシコ時代に出会ったルチャドール「レイ・コブラ(グスタボ・タピア)」から取ったもの[15]。カナダのカルガリーでデビュー。ニックネームは「謎のアストロノーツ」。入場曲はエイジア「THE HEAT GOES ON」。 1983年の初夏、カナダのカルガリーでデビュー。カルガリーではダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、ブルース、ブレットのハートファミリーらと抗争を繰り広げていた。8月13日にはビクトリア・ハビリオンで小林邦昭とタッグを組みデイビーボーイ・スミス&ブルース・ハートとの試合が45分1本勝負で行われ日本で放映され、これが『ザ・コブラ』日本初披露となった。18分2秒ノーコンテストに終わったがコブラは華麗な空中殺法を披露した。 9月2日にはブルース・ハートを破り、英連邦ヘビー級王座を獲得、タイトル初戴冠を果たしている。 その頃の日本では初代タイガーマスクがジュニア戦線で社会現象にもなるほどの一大ブームを巻き起こしていたが、1983年夏の突然の引退によって、ジュニア戦線はポッカリと穴が空いていた。コブラはその後継者として凱旋帰国を促される。当初、『ワールドプロレスリング』で日本デビュー前から正体不明の謎のマスクマンとして紹介され、NWA世界ジュニアヘビー級王座決定戦は「謎のマスクマンザ・コブラ対X(対戦者未定)」として紹介されミステリアスな雰囲気に包まれて話題を呼んだ。帰国時(一応外国人扱いだったので来日時)には成田空港でマスク姿のザ・コブラに突撃インタビューをする等、団体の期待は高かった。しかし、一部マスコミがザ・コブラ誕生の経緯を報じており、少なからず正体は知られていた。 日本デビューは、闘魂シリーズ最終戦の1983年11月3日に蔵前国技館で行われたザ・バンピート戦で、空位となっていたNWA世界ジュニアヘビー級王座が掛けられた。コブラは金地に黒の縁取り額には「忍」のマスクを覆り、白いタキシードを身につけ、白煙の中をタイガーマスクやミル・マスカラスなどの有名覆面レスラーのマスクを被った若手選手が担ぐ神輿に乗って入場し、コーナーのトップからバック宙返りでリングインした[16](青年時代カルガリーでコブラの空中殺法を観て憧れてプロレスラーになったオーエン・ハートが、来日時にこのバック宙リングインを真似している)。 対戦相手のデイビーボーイ・スミスは試合開始前に新日本プロレスに命じられたギミックに納得しておらず、「ザ・バンピート」なる覆面レスラーのマスクを自ら脱ぎ捨て正体を明かし、そのままコブラをリング下に投げ捨て、攻撃を加えるなどの出だしを見せた。スミスの容姿がダイナマイト・キッドに似ていたところから勘違いした会場からは「キッド」コールが起こった(実際にキッドとスミスは従兄弟であった)。田中秀和リングアナによってコールがされた後、ようやく試合が開始。しかしグラウンド戦が続くうちにスミスがコブラの技を受けようとしない行為が目立ちはじめ、さらにはコブラが仕掛けたトップロープ越しのノータッチプランチャをスミスがかわしたため、コブラは鉄柵と床へ激突し、両膝に大ダメージを受けた(この時、明らかに20カウント以上場外にいた)。両者共に決め手を欠く試合展開は長期戦となり、最後はコブラのフライングラリアットからの体固めでNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得したが、技の失敗もあってフィニッシュも迫力が伝わらず、結果的にこの試合は凡戦となり、初代タイガーマスクの幻影もあってコブラのデビュー戦は完全に期待外れとなってしまった。 後日のテレビ放映では、試合途中からダイジェストとなっている。またプランチャを仕掛けたところでは、スミスがかわしたところでストップし、鉄柵に衝突する場面がカットされた。またテレビでの録画中継の一部で、このデビュー戦で場内から「高野コール」が起き、必然的に正体が知られることとなった。このザ・コブラの日本デビュー戦は、2012年に放送された『ワールドプロレスリング アンソロジー』の第3回「伝説のマスクマン ザ・コブラ 秘蔵哀愁名勝負選」の中でノーカットで放送された。 帰国した12月19日にはカナダ・バンクーバーで藤波辰巳とタッグを組み60分1本勝負でデイビーボーイ・スミス&ブレット・ハートとの試合が日本で放映された8結果は22分48秒、両チームリングアウト)。翌年1984年の正月の新春黄金シリーズに2度目の来日。初代タイガーマスクが引退返上して空位になっているWWFジュニアヘビー級王座決定リーグ戦に参加、本命ダイナマイト・キッド、対抗ブラックタイガー、小林邦昭ら初代タイガーマスクのライバルと呼ばれていた3人が優勝候補に挙げられていた。参加メンバーは他にデイビーボーイ・スミス、ブレット・ハート、ベビー・フェイス、ザ・コブラ、寺西勇、高田伸彦の計9名で総当たりリーグ戦を行いピンフォール、ギブアップ勝ち=5点、リングアウト勝ち、反則勝ち、不戦勝=4点、あらゆる引き分け=2点、あらゆる負け=0点、リーグ戦の総得点上位2名による優勝決定戦というルールであった。 1月1日東京・後楽園ホールの初戦で銀色のマスクで登場し優勝候補ブラックタイガーと対戦しフライングラリアットからのフォール勝ちをすると勢いに乗り、もう一人の優勝候補小林邦昭戦では奇襲攻撃を仕掛け小林を流血させるが、両者エプロンカウントアウトの引分けで何とか凌ぐと寺西、フェイスにはピンフォール勝ちするが、ハート戦は両者リングアウトの引分けに終わる。この時点で上位は残り3戦ずつを残しスミス24点、キッド22点、コブラ19点とコブラにとって不利な状況であった。こうして迎えたリーグ戦終盤の1月27日愛知県体育館では本命キッドに大善戦しキッドが技を返され動揺したところを肩に飛び乗り、高角度前方回転エビ固めで勝利するという大番狂わせを起す。この時点で残り2戦ずつを残し元気のない小林に楽勝したスミス29点、コブラ24点、キッド22点となり油断していたキッドの肝を冷やさせる。優勝候補であったブラックタイガーは序盤戦の失点が響き、小林邦昭はスミス戦の敗北で完全に脱落した。続く北海道ではまだ若手であった高田伸彦(現:高田延彦)の善戦に遭いながらも何とか勝利し勝ち点を29に伸ばす。勝ち点27に伸ばしていたキッドだが自身のリーグ最終戦で勝たなければリーグ戦敗退濃厚な状況であった。相手は従兄弟のスミスであったが、お互いに手を抜かずスミスの善戦に遭い辛くもリングアウト勝ちを収め勝ち点31とし何とか優勝戦進出を決める。2月6日の八戸大会、勝ち点29で並んでいたコブラとスミスの対決で勝ったほうがキッドとの優勝決定戦を行うという状況下の中、あえなく両者リングアウトとなり、優勝決定戦は勝ち点31で並んだコブラ、キッド、スミスと3人の巴戦となることが決まった。 唯一人無敗で進出した2月7日東京・蔵前国技館での優勝決定戦ではコブラは青と銀のツートンカラーのニューマスクで登場し優勝戦への意気込みを感じさせた。優勝戦は先ず最初にコブラとスミスが対戦しリーグ戦同様、両者リングアウトによる引き分けに終わる。2戦目はキッドとスミスが対戦、これもリーグ戦同様、キッドが再びスミスにリングアウト勝ちした。この時点でスミスは1分け1敗となり脱落したが、コブラ戦に続き連戦でもキッドを苦しめたことにより多大な評価を得た。3戦目のコブラとキッドの対戦で優勝が決まることとなった。連戦となるキッドに対し1試合インターバルのあるコブラのほうが体力的には有利であったが、試合開始からラッシュに出る。体力的に不利なキッドが短期決戦とばかりに連続ドロップキックで反撃に出るが、徐々に体力的に有利なコブラのペースとなる。キッドが切り返しツームストンパイルドライバー、トップロープに登るとコブラが起き上がりトップロープ上のキッド目掛けてローリングソバットでキッドを場外に落とす。コブラはキッドを一旦リング内に入れ再び場外に投げ落とす。そして勝負のスペース・フライング・タイガー・ドロップ。しかし距離が足りず逆にコブラのほうがダメージを負ってしまい体力的に五分五分になってしまう。その後、一進一退の攻防となり勝利を焦ったキッドに対してコブラのジャーマン・スープレックスホールドが炸裂し、あわやという場面も見せたが最後はバックドロップからそのままのエビ固めで敗退する。2日後のシリーズ最終戦2月9日大阪府立体育会館ではリーグ戦不振に終わった小林邦昭とNWA世界ジュニアヘビー級の初防衛戦を行うが、リーグ戦のお返しとばかりに小林の奇襲攻撃を受け、完全に小林ペースで試合が進み結果は両者フェンスアウトによる引分け防衛に終わる。試合後、小林にマスク剥ぎに遭い更にベルトを強奪される。 同年夏のサマーファイトシリーズ。開幕戦からキッドと一騎打ちを行う。結果は両者リングアウトに終わったがコブラの善戦が目立った。翌週の7月5日、大阪府立体育会館ではNWA世界ジュニアヘビー級の防衛戦でも再びキッドと対戦。一進一退の攻防となったが、またも両者リングアウトに終わったものの2度目の防衛に成功した。ノンタイトル戦ではあったが、スミスとも対決しロープ越しのブレーンバスターを切り返してのジャーマン・スープレックスホールドで勝利する。青いマスクを披露した松戸大会ではヘビー級のマスクマン、エル・カネックとも対戦し高角度前方回転エビ固めで勝利する。当時カネックはメキシコで実力NO.1と言われておりウエイト的にも不利な状況だったため価値ある勝利であった。シリーズ最終戦8月2日の蔵前国技館(蔵前の国技館で行われたプロレス興行としてはこの日が最後であった。大相撲も9月場所を以って閉館、解体となった)では金・銀のニューマスクで登場し小林邦昭とNWA世界ジュニアヘビー級の防衛戦を行い好勝負を展開する。一進一退の攻防でコブラがやや押し気味であったがコブラがトップロープに上ったところを小林が肩車からの雪崩式バックドロップを放つと形勢逆転、大ピンチになった。結果は小林にブレーンバスターでフェンス外に投げ出されての反則勝ちで3度目の防衛成功と発表されたが、小林側の抗議により投げた小林も勢い余ってフェンス外に出たため両者フェンスアウトによる引分けに修正された。この後、小林は長州らとともに新日本プロを離脱したため小林との決着は着かなかった。 同年秋の闘魂シリーズの開幕戦ではペパーミントグリーンのマスクを披露。シリーズ序盤はあまり調子は良くなかったが、シリーズが進むにつれて徐々に調子を上げると、シリーズ中盤でブラックタイガー相手にNWA世界ジュニアヘビー級の防衛戦に完勝。シリーズ最終戦となる11月1日東京体育館でのNWA世界ジュニアヘビー級の防衛戦では4色カラーのニューマスクで登場し再びブラックタイガーと対戦。安定した試合運びで最後はバックの取り合いからの原爆固めでねじ伏せ連勝した。この頃にはジュニア王者として安定した実力を見せるようになる。しかし年末にはキッド、スミスが新日本を離脱しライバル不在となる。キッドの新日本離脱により同年12月28日ニューヨーク州ニューヨーク MSGにおいて空位となったWWFジュニアヘビー級王座決定戦(相手は三たびブラック・タイガー)に勝利したコブラは遂に初代タイガーマスク以来のNWAとWWFのジュニアヘビー級二冠王となる。 年が明け1985年になると台頭してきたヒロ斎藤と抗争を繰り広げる。正月の新春黄金シリーズの終盤、タッグマッチながらヒロ斎藤にピンフォールを奪われる大ハプニングがあったが、シリーズ最終戦のWWFジュニアヘビー級戦では斎藤のラフを交えたファイトに大苦戦の末、マスクを破られ反則勝ちながら防衛した。安定してきた試合内容とは裏腹にラフファイトに弱い一面を見せてしまう。斎藤は、このシリーズでの活躍で完全にコブラのライバルとなり、ハブとマングースの戦いと呼ばれるようになった。シリーズ終了後、ハワイ遠征でリッチー・マグネット相手にNWA世界ジュニアヘビー級王座の防衛戦を行うと、その後約2カ月間、ジュニアチャンピオンとして、アメリカでサーキットすることを明かす。 IWGP&WWFチャンピオンシリーズではスーパー・ストロング・マシーンがマネージャーの若松と仲間割れを起こしマシーン軍団を離脱し軍団と藤波との抗争を繰り広げており、同じマスクマンであるスーパー・ストロング・マシーンの動向に注目を集まるようになっていく。そのためマシーンの試合は毎週のようにTV放映されるが、コブラの試合はジミー・スヌーカとの夢の対決、特別試合はおろか、タイトルマッチですらTV放映されなくなっていった。コブラはこのシリーズで宿敵ヒロ斎藤とWWFジュニア戦2連戦を行うが、ノーTVマッチとなった。 5月18日後楽園ホールでは16分11秒 オースイ・スープレックス・ホールドで防衛に成功するが、2日後の5月20日、広島県立体育館ではフェンスアウトによる反則負けでWWFジュニア王座をヒロ斎藤に明け渡す。試合後コブラは斎藤が勝手にフェンス外に飛び出したと抗議したが受け入れられなかった。翌シリーズ「バーニングスピリットインサマー」では、開幕戦6月28日、品川プリンスホテル・アイスアリーナではコブラがヒロ斉藤のWWFジュニア王座に挑戦。この試合では青い口の裂けたようなデザインのマスクを披露し完全にヒールになりきり、ゴング前から奇襲攻撃を仕掛け、斎藤に何もさせず更にコブラはオースイ・スープレックス・ホールドなど大技で追い込む。結果は一瞬の隙をついた斎藤のジャーマンの前にフォール負けを喫するも、コブラはカウントが早い、カウント2で肩を上げたと猛抗議。しかし判定は覆らず斎藤の防衛成功に終わった。納得のいかないコブラは7月19日の札幌でのWWFジュニアヘビー級選手権の斎藤対ブラックタイガーの試合後リングに上がりブラックタイガーをジャーマン・スープレックスホールドで仕留め防衛に成功した斎藤に対し英語で自ら保持するNWA世界ジュニア王座のベルトも賭けて再戦を要望、実現の運びとなる。同年7月28日大阪城ホールにてNWA世界ジュニアとWWFジュニアのダブルタイトルマッチで試合は12分24秒、斎藤のリングアウト勝ちとなるが、両者ともに納得がいかず再試合。2分26秒、コブラが逆さ押さえ込みでヒロ斉藤から3カウントを奪って勝利。NWA世界ジュニアヘビー級王座を防衛すると共にWWFジュニアヘビー級王座に返り咲き。再びジュニアヘビー級二冠王者となる。しかし、この試合もノーTVであったため熱狂的なファンには知られていたが、一般的なファンには伝わらなかった。 8月1日東京・両国国技館で全日本から越中詩郎が挑戦者として名乗りを挙げる。NWA世界ジュニアヘビー級選手権ではドン荒川相手に善戦にあったものの9分58秒、ジャーマン・スープレックスホールドで貫禄勝ちし8度目の防衛に成功したが試合後、突然にNWA世界ジュニアヘビー王座を返上した(この試合もノーTVであった)。結局、日本のデビュー戦から保持し続けたNWA世界ジュニアヘビー級王座は誰にも明け渡すことはなく、更にようやく得たライバル、ヒロ斎藤もこのシリーズを最後にスーパー・ストロング・マシーン、高野俊二と共に新日本を離脱して行った。しかし皮肉なことにマシーンが離脱したことにより再びコブラの試合がTV放映されていくようになる。 8月3日ハワイでは挑戦者決定戦を勝ち上がってきたスーパー・フライ・チュイ相手に終始、ペースを与えず完勝しWWFジュニアヘビー級王座の初防衛に成功した。バーニングスピリットインオータムでは10月4日札幌中島体育センターでフィッシュマン相手に16分51秒オースイ・スープレックスで完勝し、2度目の王座防衛に成功。シリーズ中盤ではノンタイトルながら全日本プロレスから移籍してきた越中とシングルで初対決。好勝負を演じるが決着が着かず、決着は翌シリーズ以降に持ち越しとなった。最終戦の10月31日東京体育館でドン荒川相手に13分29秒首固めで勝利し3度目の王座防衛に成功したが、新日本プロレスとWWFの提携終了によりWWFジュニアヘビー級王座を返上した。これによりコブラは無冠となり新日本プロレスにもジュニアヘビー級のタイトルは総て無くなった。それを受け、IWGPジュニアヘビー級王座が創設される。 1986年正月に開催されたニューイヤーダッシュ86でIWGPジュニアヘビー級王座決定リーグ戦が開かれる。参加メンバーはザ・コブラ、越中詩郎、ドン荒川、小杉俊二、山田恵一、ブラックタイガー、トニーセントクレアー、スコルピオ、ジョニー・マンテルの9名。総当たりリーグ戦を行いピンフォール、ギブアップ勝ち=5点、リングアウト勝ち、反則勝ち、不戦勝=4点、あらゆる引き分け=2点、あらゆる負け=0点、リーグ戦の総得点上位2名による優勝決定戦というルールで行われた。コブラは初戦で難敵ブラックタイガーに勝利し幸先の良いスタートを切るが、当時若手の山田恵一の善戦による引分け、越中にオーバーザフェンスによる反則負け等、意外に苦戦しリーグ戦は大混戦となる。最終戦の段階でトップだった越中が荒川の罠にはまり反則負けし勝ち点27で全日程終了したためコブラ26点、セントクレアー24点、ブラックタイガー23点、マンテル22点まで優勝戦進出の可能性を残した。勝てば優勝戦進出が決まるブラックタイガーはマンテルに反則負け。マンテルも反則勝ちのため4点しかプラス出来ず脱落した。この結果、越中の優勝戦進出が決まった。一方、負けなければ優勝戦進出が決まるコブラと勝ちが絶対条件のセントクレアーの対決は両者硬さが目立ち両者リングアウトの引き分けに終わった。何とか優勝戦へ駒を進めたコブラは集大成とばかりに14色を使ったマスク(スパルタン)で同年2月6日に両国国技館で越中詩郎と初代チャンピオンの座をかけて対戦。スペース・フライング・タイガー・ドロップなど大技を連発し終始押し気味に試合を進めるがトップロープからのダイブを仕掛けたところに越中の膝爆弾を喰らい15分22秒、越中のジャーマン・スープレックスホールドの前に敗北する。 1986IWGPチャンピオンシリーズでは新日本対UWFの熾烈な抗争が行われており、連日のように激戦が繰り広げられていた。ジュニアヘビー級戦線は越中詩郎VS高田伸彦の名勝負数え唄のような図式に様変わりしていて、コブラの入る隙は全く無くなっていた。前回の来日から僅か3カ月余りの間に完全に過去に取り残されてしまっていた。しかも新日本のコブラに対する扱いも今までとは違い、来日した大物外国人選手などのジョバーなどもやらされていたが、越中を破って第2代チャンピオンとなり成長した高田伸彦とIWGPジュニアヘビーのタイトル戦に同年6月17日に愛知県体育館で対戦した。しかし、結果は両者リングアウトでIWGPジュニアヘビーのタイトル獲得はならなかった。高田とのタイトル戦から3日後の同年6月20日、京都府立体育館の’86IWGP追撃戦でのバトルロイヤルが最後の試合となった。このシリーズを最後に、「キング・コブラになって帰ってくる」と言い残したが、結局帰ってくることはなかった。 得意技
タイトル歴
アントニオ猪木とのエピソード高野は師匠であるアントニオ猪木に心酔しており、「自分は猪木さんの兵隊。命も投げ出せる」と言い、自身が設立した団体FSRも、猪木の代名詞である“闘魂”(fighting spirit)を表した団体名となっている。
同期とのエピソード正式には佐山聡(1975年7月入団、1957年11月生まれ)と同期であるが(高野は1976年8月入団、1958年6月生まれ)、高野は映画出演等で一度プロレスから離れており、1978年6月に復帰している。 そのため、1977年7月入団の前田日明(1959年1月生まれ)、1978年5月入団の平田淳嗣(1956年12月生まれ)と同期扱いされ、くくられて見られることが多かった。このほかに、入団や年齢が近く対戦も多かったレスラーには、ヒロ斎藤(1978年2月入団、1961年5月生まれ)や越中詩郎(1978年7月全日本プロレス入団、1958年9月生まれ)らがいる。 特に前田日明、平田淳嗣とは合宿所で共同生活をしていたことから様々なエピソードがあり、仲の良さがうかがわれ、またそれぞれの見た目やキャラクター、ファイトスタイル等の個性の違いから、良きライバルでもあり、将来の新日本プロレスを背負う存在として期待され、元祖闘魂三銃士とも言える3人であった。 結果的には、前田日明が抜けて世代としての厚みが1枚薄くなったことで、藤波・長州世代と橋本・武藤・蝶野の闘魂三銃士世代との間で高野・平田の世代は置き去りにされ、年齢的にもキャリア的にも伸び盛り~全盛期であるにもかかわらず、便利屋や引き立て役的な役回りを任されることとなり、このことが高野のSWS移籍にも繋がっていく。 佐山聡
前田日明
平田淳嗣(スーパー・ストロング・マシン)
越中詩郎
その他のエピソード
俳優活動
その他
脚注
外部リンク
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