ウルフはノースカロライナ州アシュビルで、ウィリアム・オリヴァー・ウルフ(英: William Oliver Wolfe、1851年 - 1922年)、ジュリア・エリザベス・ウェストール(英: Julia Elizabeth Westall、1860年 - 1945年)の間に、8人兄弟の末っ子として生まれた。きょうだい8人の内6人が成人した[注 1][5]。親しい人間の間では、トムとの愛称で呼ばれた[6]。
1906年、母ジュリアはアシュビル・スプルース通り48番地近くの下宿屋「オールド・ケンタッキー・ホーム」(英: "Old Kentucky Home")を買い取り、他の家族をウッドフィン通り(英: The Woodfin Street)の家に残したまま、末息子のトーマスとふたりで暮らし始めた。ウルフは1916年に大学へ進学するまで、スプルース通りのこの下宿屋で暮らした。現在建物は、記念館トーマス・ウルフ・ハウス(英語版)として一般公開されている[7]。ウルフがきょうだいの中で1番親しくしていたのは兄のベンで、26歳という兄の早過ぎる死は、ウルフの小説『天使よ故郷を見よ(英語版)』で描写されている[5]。ジュリアは不動産の売り買いを行い、次第に不動産投資家として成功するようになった[5]。ウルフはノース・ステート・フィッティング・スクールに通い、そこで出会った教師のマーガレット・ロバーツは、作家になりたいという彼の夢を後押しした[8]。
ウルフはノースカロライナ大学チャペルヒル校 (UNC) に進学した。大学では社交クラブ Dialectic Society (en) とパイ・カッパ・ファイ (Pi Kappa Phi) に籍を置き、いつしか自分の肖像画がノースカロライナ州の政治家ゼブロン・バンスの近くに掛けられるだろうと予言した(この予言は現在実現している)[9][10]。1919年、脚本家になりたがったウルフは、大学で脚本家コースに参加した[2]。ウルフが書いた一幕の劇 "The Return of Buck Gavin"(意味:バック・ギャヴィンの帰還)は、フレデリック・コッホ(英: Frederick Koch)の脚本家クラスの生徒で新しく結成された劇団カロライナ・プレイメーカーズ(英語版)によって演じられ、ウルフ自身もタイトル・ロールを演じた。彼はまた、UNCの学生新聞『デイリー・ターヒール(英語版)』[注 2]の編集に携わり[5]、「産業の危機」The Crisis in Industry と銘打ったエッセイでワース賞哲学部門(英: The Worth Prize for Philosophy)を獲得している。彼が書いた別の戯曲 "The Third Night"(意味:第三の夜)は、先述の学生劇団プレイメーカーズによって1919年12月に上演された。ウルフはまたゴールデン・フリース栄誉者会(英: The Golden Fleece honor society)に入会している[9][注 3]。
ウルフは学士(教養) (Bachelor of Arts) を取得して、1920年にUNCを卒業した[4]。この年の9月にはハーバード大学教養大学院(英語版) (GSAS) に入学し、ジョージ・ピアース・ベイカー(英語版)に師事して脚本を学んだ。ウルフによる脚本 "The Mountains"(意味:山々)は、1921年に開かれたベイカーのワークショップ "The 47 Workshop" で2パターン上演されている。
1922年、ウルフはハーバード大学で修士号を取得した。彼の父は同じ年の6月にアシュビルで亡くなり、このことは彼の執筆に大きな影響を与えた。ウルフはベイカーのワークショップでもう1年学ぶことにし、1923年5月には10シーンからなる演劇 "Welcome to Our City"(意味:僕らの街へようこそ)をプロデュースしている。
その後4年間ブルックリンに住んで執筆を続けたウルフは[31]、スクリブナー社から出す第2作として、複数巻からなる大叙事詩 "The October Fair" を完成させて提出した(作品はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』並の大長編だった)。作品全体を出版した場合の商業的可能性を考えた後、パーキンズは原稿を大きくカットして、単巻ものとして出版することを決めた。第2作『時と川について(英語版)』は1935年に出版され、処女作の『天使よ故郷を見よ』より商業的に成功した[9]。ウルフの作品は、登場人物の心情や動作を全て再現しようとするために大長編となっており、一方で記述の分量などバランス感覚が欠けていたので、この点をパーキンズの編集が補った[33]。この編集作業に深く感謝していたウルフは、この作品にパーキンズ宛の献辞を付けた[34][35]。パーキンズは編集者が表に出るのをよしとせず、ウルフの身を切らせて削除に同意させたことなどを挙げて献呈を断ろうとしたが、結局は受け入れた上で、自分にとって幸せなことだと書き送っている[36]。今度の作品にはアシュビルの人々は登場しなかったが、皮肉なことに、地元住民は自分たちが登場しなかったことで慌てふためいた[37]。作中に登場するエスター・ジャック(英: Esther Jack)は、バーンスタインをモデルにしたものだった[22][38][39]。刊行と前後した1934年、ウルフはボイドとの契約を解除してマキシム・リーバー(英語版)と文学エージェント契約を結んだ。
ウルフは元から神経質な人間だったが、1935年に出した最初の短編集『死より朝へ』"From Death to Morning" が酷評を受け始めたことで、パーキンズなど周囲の人間に当たり散らすようになった[40]。また、自らの実体験を元に『天使よ故郷を見よ』『時と川について』を書き上げたウルフは、パーキンズから聞いた話などを元に、スクリブナー社の内幕を小説に起こし始めた[41]。パーキンズの同僚だったジョン・ホール・ホィーロック(英語版)は、「彼は不用意な発言をする男ではなかった」が、「酔いがまわってくると、トムを授からなかった息子のように思って話をしたのだろう」と振り返っている[41]。パーキンズはこれでは会社に居られなくなると漏らし、エージェントのエリザベス・ノーウェルから不用意にもこの発言を伝えられたウルフは激怒した[41][注 7]。さらに具合の悪いことに、『死より朝へ』収録の短編でモデルにされた女性が、ウルフへ慰謝料の支払いを求める訴えを起こそうとした[43]。パーキンズは彼女たちが金目当てに申し入れたに過ぎず、ウルフを執筆に専念させるため示談で穏当に解決しようと考えていた[43]。また、長年にわたって身近な人物を題材としてきたウルフには、裁判沙汰になれば名誉毀損訴訟を何件も起こされるリスクがあった[43]。しかしウルフはこの行動に対して、「スクリブナー社が自分を守ってくれなかった」と不満を抱いた[43]。この一件を機に、1936年11月12日、ウルフは契約の解除を手紙で申し入れ、スクリブナー社もそれを了承して印税を清算した[44]。
ウルフとスクリブナー社の決裂については、パーキンズのしつけめいた厳しい編集が原因になったとの指摘も存在する[45]。また、パーキンズの編集無しでは成功できなかったとの論評に、ウルフが憤慨したという説も存在する[22]。1936年にバーナード・デヴォート(英語版)が『サタデー・レビュー』"Saturday Review" へ発表した非難記事では、ウルフの書いた『ある小説の物語』"The Story of a Novel" を評しつつ、『天使よ故郷を見よ』について、「切り刻まれ、成型され、圧縮されて、パーキンズ氏の小説というか、スクリブナー社の大量生産品のようになっている」(英: [Look Homeward, Angel was] "hacked and shaped and compressed into something resembling a novel by Mr. Perkins and the assembly-line at Scribners.")と書かれている[46][47]。デヴォートは、構成力も無いウルフは、パーキンズ無しでは大作家になれなかったと断定した[48][49]。『ある小説の物語』は、前年1935年7月にコロラド大学で開かれた作家会議で、自作執筆におけるパーキンズの助力を語り、これに加筆して出版したものだった[50]。結局ウルフは、スクリブナー社を離れるようにというエドワード・アズウェル(英語版)の説得を呑み、ハーパー&ブラザーズ(英語版)へ版元を変えた[51]。
ウルフは長い間ヨーロッパで生活したが、作品は特にドイツで人気となり[55]、現地で多くの友人を作った。しかしながら、1936年にユダヤ人への差別事件を目撃したことが原因となり、狼狽したウルフはドイツの政治情勢に関する考えを改めた[47]。ウルフはアメリカへ帰国し、自分の観察に基づいた小説 "I Have a Thing to Tell You"(意味:君たちに言うことがある)を『ニュー・リパブリック(英語版)』誌に掲載した[47]。この掲載がきっかけで、ドイツ政府はウルフの本を発禁処置にし、同時にウルフ本人のドイツ渡航も禁止された[47]。
1938年、新しい編集者エドワード・アズウェル(英語版)に100万語の原稿を託した後、ウルフはニューヨークを離れてアメリカ西部旅行へ出掛けた[57]。道中、ウルフはパデュー大学に立ち寄って "Writing and Living"(意味:書くことと生きること)と題した講義を行い、その後これまで訪れたことの無かった西部の11国立公園を2週間かけて巡った[3]。ウルフはアズウェルへ、過去の作品では自分の家族を主題にしていたが、今ではもっと全体的な視点で物が書けそうだと書き送っている[58]。7月、ウルフはシアトルを訪れている最中に肺炎にかかり、現地病院に3週間入院した[32]。姉のメイベルは、ワシントンD.C.で営んでいた下宿を畳み、ウルフの看病をするためシアトルに駆けつけた[32]。合併症を起こしたウルフは、その後脳内の粟粒結核(英語版)(ぞくりゅうけっかく)と診断された。
何が起こっても、そして過去に何があったにしても、いつもあなたのことを考え、あなたに対して3年前の7月4日と同じ感情を抱いています。あなたがわたしを船まで出迎えてくれ、二人で高いビルの屋上にのぼり、人生と都会の異様さ、栄光、力が眼下に広がっているのを見たあの日と同じ気持ちなのです。 I shall always think of you and feel about you the way it was that Fourth of July day three years ago when you met me at the boat, and we went out on the cafe on the river and had a drink and later went on top of the tall building, and all the strangeness and the glory and the power of life and of the city was below. — トーマス・ウルフ(原文引用元[61]、訳文引用元[62])
ウルフの生前に出版された作品は全体の半分も無く、死後多くの未出版原稿が残された[66]。出版社に完成済で未出版の小説を2冊残して亡くなったのは、アメリカの作家でウルフが初めてだった[67]。この2冊は、ハーパー&ブラザーズ(英語版)のエドワード・アズウェル(英語版)が編集した後、『くもの巣と岩(英語版)』・『汝再び故郷に帰れず(英語版)』として出版された。それぞれ700ページ近くある2作には、「今まで書かれた単巻物小説の中で最長の2冊」との批評も付けられた[67]。作中で、ウルフは自己投影した登場人物の名前を、それまでのユージーン・ガントからジョージ・ウェバー(英: George Webber)へ変更している[67]。
『天使よ故郷を見よ(英語版)』の「作家版」("author's cut") である、オリジナルの『失われしもの』"O Lost" は、F・スコット・フィッツジェラルドの研究者であるマシュー・J・ブルッコリ(英語版)によって再構成され、ウルフの生誕100年を記念した2000年に出版された。ブルッコリは、パーキンズは有能な編集者だったものの、『天使よ故郷を見よ』は完全版の『失われしもの』に見劣りし、完全版の小説の刊行は「文学の正典へ名作を復活させるも同然だ」(英: [the publication of the complete novel] "marks nothing less than the restoration of a masterpiece to the literary canon.")と述べている[22]。
彼の長編第2作『時と川について(英語版)』の出版に当たっては、欠点をいくつか挙げた批評家もいたが、概ね好意的な批評を得て、読者の反応も作品を支持するものが多かった[31]。作品は大衆に受け入れられ、ウルフはアメリカで唯一人のベストセラー作家となった[31]。出版は「1935年の文学史に残るイベント」と見なされたが、これは『天使よ故郷を見よ』の出版当初、ほとんど注目されなかったこととは対照的だった[72]。『ニューヨーク・タイムズ』、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(英語版)』の両紙は、1面に熱烈な書評を掲載した[72]。クリフトン・ファディマン(英語版)は『ザ・ニューヨーカー』で、本に抱いた感情は上手く表せないが、「数十年、アメリカ文学には彼のような雄弁さは登場していなかった」(英: "for decades we have not had eloquence like his in American writing.")と評した[72]。『ニュー・リパブリック(英語版)』のマルカム・カウリーは、本が半分の長さだったなら2倍良かったとしつつも、ウルフは「ディケンズやドストエフスキーと同じ香りがすると評されるであろう、現代唯一の作家」(英: "the only contemporary writer who can be mentioned in the same breath as Dickens and Dostoevsky")だと述べた[72]。ロバート・ペン・ウォーレンは、ウルフは「書かれたかもしれない見事な小説」(英: [from which] "several fine novels might be written")から、素晴らしい断章を作り上げたと評し、「シェイクスピアはただ『ハムレット』を書いただけで、彼自身はハムレットではなかったことを思い出してもよいかもしれない」[注 13]とも続けた。ジョン・ドナルド・ウェイド(英語版)もウルフを賛美する批評を出版している[73]。
ウルフは生前、F・スコット・フィッツジェラルドやアーネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・フォークナーと並ぶアメリカ文学の代表的な作家のひとりと考えられていた[47]。2003年の『ニューヨーク・タイムズ』紙では、ウルフの世評や関連した学術論文は「回復傾向」(英: "upswing")にあると評されたが[74]、実際の所、作品の人気は彼の死後「全て打ち砕かれ」た(英: "all but destroyed")[22][47]。ウルフの作品は、大学の授業や優れた作家によるアンソロジーでも、省かれることがしばしばである[47]。フォークナーやW・J・キャッシュ(英語版)はウルフを同時代の作家で最も有能な人物と位置づけた(但しフォークナーは後にこの評価を下方修正している)[75]。初期にはウルフの作品を賛美していたフォークナーだったが、後に彼は、ウルフの作品について「ベリーダンスを踊ろうとしている象のようだ」(英: "like an elephant trying to do the hoochie-coochie")と述べている。アーネスト・ヘミングウェイは、ウルフを評して「文学界の膨れすぎたリル・アブナー(英語版)」(英: "the over-bloated Li'l Abner of literature")だと述べた[76]。
アーカイブ
ウルフの作品を集めたアーカイブ・コレクションは、アメリカ合衆国の2大学に収蔵されている。1つはハーバード大学ホートン図書館(英語版)の「トーマス・クレイトン・ウルフ文書」(英: The Thomas Clayton Wolfe Papers)で、ここにはウルフの全原稿が収められている[5]。2つ目は、ノースカロライナ大学チャペルヒル校のノース・カロライナ・コレクションに収蔵された、トーマス・ウルフ・コレクションである。ノースカロライナ大学チャペルヒル校では、ウルフの誕生日に近い毎年10月に、現代の作家に向けてトーマス・ウルフ賞の授与と記念講義を開催しており、過去の受賞者には、ロイ・ブラント・ジュニア(英語版)や、ロバート・モーガン(英語版)、パット・コンロイ(英語版)などがいる[77]。
サンドラ・メイソン(英: Sandra Mason)による戯曲 "Return of an Angel"(意味:天使の帰還)では、『天使よ故郷を見よ(英語版)』出版当時、ウルフ家やアシュビルの人々がどのような受け止め方をしたか描かれている。戯曲は、記念館トーマス・ウルフ・ハウス(英語版)の近くで、ウルフの誕生月である10月に数回上演されている。アシュビルのパック記念図書館(英: Pack Memorial Library)には、「アシュビルの有名な息子を讃えて」(英: "honors Asheville's favorite son")トーマス・ウルフ・コレクションが収蔵されている[87]。西ノース・カロライナ歴史協会(英: The Western North Carolina Historical Association)は、1955年以来トーマス・ウルフ記念文学賞(英: The Thomas Wolfe Memorial Literary Award)を毎年開催しており、前年の文学で業績があった人物へ賞が贈られる[88]。トーマス・ウルフ・ソサエティは、ウルフの執筆した作品を祝い、毎年作品に関するレビューを出版している[80]。アメリカ合衆国郵便公社は、ウルフ生誕100年となった2000年に、記念切手を発売している[80]。
ウルフの戯曲 "Welcome to Our City"(意味:僕らの街へようこそ)は、彼がハーバード大学に在籍していた頃に2回、そして1950年代にはチューリッヒで上演されているほか、2000年には、ウルフ生誕100年を記念し、ニューヨークのミント・シアター(英: Mint Theater)で上演された[90]。
トーマス・ウルフ・ソサエティ(英: The Thomas Wolfe Society)は、ウルフの正しい評価と、その作品の研究を進めようと1970年代遅くに発足した。ソサエティは毎年5月に、ウルフが訪れたアメリカ・ヨーロッパの各地で年次総会を行っている。最近の会合は、サウスカロライナ州グリーンビルやフランス・パリ、ミズーリ州セントルイスなどで行われている。ウルフに関連した作品や学術論文、書簡、批評文などを集め、毎年「トーマス・ウルフ・レビュー」(英: The Thomas Wolfe Review)として発行している。ソサエティはウルフの名を冠した文学奨学金の授与も行っている。
^きょうだいはレズリー・E(英: Leslie E. Wolfe、1885年 - 1986年)、エフィー・ネルソン(英: Effie Nelson Wolfe、1887年 - 1950年)、フランク・セシル(英: Frank Cecil Wolfe、1888年 - 1956年)、メイベル・エリザベス(英: Mabel Elizabeth Wolfe、1890年 - 1958年)、グローヴァー・クリーヴランド(英: Grover Cleveland Wolfe、1892年 - 1904年)、ベンジャミン・ハリソン(英: Benjamin Harrison Wolfe、1892年 - 1918年)、フレデリック・ウィリアム(英: Frederick William Wolfe、1894年 - 1980年)であった。
^原文:"His was one of the most confident young voices in contemporary American literature, a vibrant, full-toned voice which it is hard to believe could be so suddenly stilled. The stamp of genius was upon him, though it was an undisciplined and unpredictable genius.... There was within him an unspent energy, an untiring force, an unappeasable hunger for life and for expression which might have carried him to the heights and might equally have torn him down."[3]
^原文:"The death last week of Thomas Clayton Wolfe shocked critics with the realization that, of all American novelists of his generation, he was the one from whom most had been expected."[65]
^原文:[Wolfe had produced] "as interesting and powerful a book as has ever been made out of the drab circumstances of provincial American life."[22]
^原文:[The novel was] "the product of an immense exuberance, organic in its form, kinetic, and drenched with the love of life... I rejoice over Mr. Wolfe."[70]
^原文:"He may have a chance to be the greatest American writer.... In fact I don't see why he should not be one of the greatest world writers."[71]
^原文:"And meanwhile it may be well to recollect that Shakespeare merely wrote Hamlet; he was not Hamlet."[72]
Mitchell, Ted (1997). Thomas Wolfe: A Writer's Life. Raleigh, N.C. : N.C. Dept. of Cultural Resources, Division of Archives and History ; Boone, N.C : The Appalachian Consortium. ISBN0865262861. OCLC42806696
Mauldin, Joanne Marshall (2007). Thomas Wolfe: When Do the Atrocities Begin?. Knoxville: University of Tennessee Press. ISBN9781572334946. OCLC70867074