中野 種一郎(なかの たねいちろう、1876年9月20日[1] - 1974年1月24日[2])は、日本の政治家、実業家。伏見町長、伏見市長を経て、衆議院議員や、京都放送会長、京都商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、関西経済連合会副会長などを歴任した。
人物・経歴
京都府乙訓郡調子村(現・長岡京市)生まれ[1]。佛教専門学校(現佛教大学)卒業。家業の酒造業に従事する。1908年に紀伊郡会議員となり、以後4期務めた[1]。また、1909年3月からは伏見町会議員となって、3期務めた[1]。1914年からは郡会議長も務めた[1]。1923年の郡制廃止まで郡会議長と議員を務めた[1]。1926年8月3日に伏見町長に就任した[3]。1929年5月1日、市政施行に伴い市長臨時代理者に就任した[4]。同月18日に市長に当選した[5]。1931年4月1日に伏見市は京都市に編入された[6][注釈 1]。同年6月22日に京都市会議員の増員選挙が行われ、伏見区選挙区から立憲政友会公認で立候補して初当選を果たした[7][8][注釈 2]。同年9月25日、京都府会議員に京都市伏見区選挙区から立候補して当選した[10]。1932年2月に第18回衆議院議員総選挙に京都府第2区から立憲政友会公認で立候補して、当選した[9][11]。これに伴い、同年3月9日に府議を辞職した[10][9]。1933年、市会議員に再選した[12][13]。1936年6月13日に市議を辞職した[13]。戦後は日本自由党京都府連顧問を務めたが、その後、無党派になった[9]。1945年10月に宝酒造の監査役となった[9]。1946年10月に京都商工会議所会頭となった[9]。1947年関西経済連合会副会長。1951年日本商工会議所副会頭[9]。同年京都放送取締役会長[9]。1956年藍綬褒章受章。1959年京都産業観光センター取締役会長。同年紺綬褒章受章、藍綬褒章飾版。1964年日本WHO協会会長。同年勲三等旭日中綬章受章。1970年京都市名誉市民。1971年勲二等瑞宝章受章。1974年正四位[14][15][16][17]。
家族
脚注
注釈
- ^ 前日の3月31日までの在職が確認出来る[6]。
- ^ 立憲政友会の前は立憲国民党に在籍した[9]。
出典
参考文献
- 先代
- 足立正
|
- 国民精神研修財団理事長
- 第3代:1973年 - 1974年
|
- 次代
- 松下幸之助
|
|
---|
1931年4月1日編入 |
|
---|
官選 |
- 内貴甚三郎1898.10.12-1904.10.11
- 西郷菊次郎1904.10.12-1911.7.13
- 川上親晴1912.1.6-1912.12.20
- 井上密1913.3.31-1916.7.19
- 大野盛郁1917.1.10-1918.5.7
- 安藤謙介1918.11.29-1920.12.3
- 馬淵鋭太郎1921.7.22-1924.9.19
- 安田耕之助1925.2.21-1927.8.9
- 市村光恵1927.8.20-1927.11.13
- 土岐嘉平1927.12.13-1931.12.12
- 森田茂1931.12.21-1932.11.30
- 大森吉五郎1932.12.18-1935.1.15
- 浅山富之助1935.2.19-1936.6.4
- 市村慶三1936.6.4-1940.6.3
- 加賀谷朝蔵1940.6.8-1942.6.22
- 篠原英太郎1942.7.6-1946.2.16
- 和辻春樹1946.3.13-1946.11.27
|
---|
公選 |
- 神戸正雄1947.4.7-1950.1.6
- 高山義三1950.2.10-1966.2.4
- 井上清一1966.2.5-1967.1.8
- 富井清1967.2.28-1971.2.25
- 舩橋求己1971.2.26-1981.7.26
- 今川正彦1981.9.1-1989.8.29
- 田邊朋之1989.8.30-1996.1.29
- 桝本頼兼1996.2.26-2008.2.24
- 門川大作2008.2.25-2024.2.24
- 松井孝治2024.2.25-
|
---|
カテゴリ |