久世広周
久世 広周(くぜ ひろちか)は、江戸時代末期の大名。下総国関宿藩主。関宿藩久世家7代。 生涯旗本・大草高好の次男として生まれる。文政13年(1830年)10月12日、関宿藩主久世広運の末期養子として家督を継いだ。天保3年(1832年)10月1日、11代将軍徳川家斉に拝謁する。 嘉永4年(1851年)、老中として阿部正弘らと共に諸外国との折衝に当たったが、安政の大獄での一橋派による江戸城不時登城に対する井伊直弼の強圧的な処罰方針に閣老中ただひとり反対するなどしたため、直弼の怒りを買って罷免される。 万延元年(1860年)、桜田門外の変で直弼が暗殺された後、老中安藤信正の推挙を受けて再度老中に就任、信正と共に公武合体政策を推進した。政情不安が進む政局の安定化に努める一方で、長州藩の長井雅楽による「航海遠略策」の支援なども行なった。しかし文久2年(1862年)、安藤が坂下門外の変を機に老中を罷免されるや、その連座および安政の大獄時に閣老の一人であったにもかかわらず、井伊直弼の暴挙を止められなかったこと、また公武合体(または外交方針である航海遠略策)の失敗などの責任を問われ、老中を罷免されて失脚した。元治元年(1864年)、失意のうちに死去した。享年46。 官歴※日付は旧暦
※参考資料:大日本近世史料「柳営補任」、「内閣文庫蔵・諸侯年表」東京堂出版、続日本史籍叢書「増補幕末明治重職補任・附諸藩一覧」東京大学出版会など。 系譜父母 正室
子女 登場作品
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