五つの赤い風船
五つの赤い風船(いつつのあかいふうせん)は、日本のフォークグループ。 概要1965年に中川イサトが中心となり結成されたPPMスタイル(PPMやキングストン・トリオらのコピーをしていた[1])の「ザ・ウィンストンズ」が母体[2][3]。そのグループのマリー役であった藤原秀子が、当時画家だった西岡たかしと知り合い、メンバー全員が西岡の家に出入りするようになる。そして、1966年に西岡を中心として、「ザ・ウィンストンズ」から「五つの赤い風船」に生まれ変わる[2][3]。 1967年には「第一回ヤマハ・ライト・ミュージック関西大会」に「血まみれの鳩」で出場し、関西大会フォーク部門3位を取っている[1][4]。ここで知り合った泰政明(後の髙石事務所社長)のはからいで、1968年3月「アンダー・グラウンド音楽会」に出演[2]。彼らにとって初のビッグステージとなったこのコンサートで聴衆を魅了し、その存在を広く知らしめた。この直後、有山じゅんじは抜け、フォーク・キャンパスにいた長野たかしが加入[2][3]。 この年5月「恋は風に乗って」でシングルデビューし、翌年URCとしては会員制時代の非市販での第一号LPを、1969年2月に高田渡との片面ずつ構成「高田渡/五つの赤い風船」で発表。 1969年8月には早くも2枚目のアルバム「おとぎばなし」が発売される。そのツアーの最中に、「サウンドを作り込んでツアーに臨んでいるのに、イサトが新しく買ったギターを使ってぶち壊しにしてしまった」と中川がガットギターから鉄弦ギターへ変更した(中川本人はずっと鉄弦でやりたかった)ことに西岡が激怒して[5]、そのまま脱退[3]。しかしその人気は益々上昇、新メンバー東祥高も加入し、岡林信康と並ぶ、当時最も支持者の多いアーティストのひとつとなる[3]。 結局、3年間の活動期間に6枚ものアルバムを出し、1972年8月31日、岡林信康ら(脱退した中川イサトも参加している)をゲストに迎えた「ゲームは終わり」で幕を閉じた[3]。 1979年二度のライブのためだけに再結成。 2000年再結成。 1960年代後半から70年代初頭にかけて数多くのヒット曲を発表し初期フォーク・ブームを牽引、若者から絶大な人気を得た。特に西岡と藤原の混声ハーモニーは高い評価を得た[6]。 なお、1975年に結成し、1976年に解散した「五つの赤い風船'75」は事実上別グループである。 メンバー
五つの赤い風船'752000年再結成時ディスコグラフィシングル
アルバムオリジナル・アルバム
ライブアルバム
ベストアルバム
企画物
映像ソフト
関連項目
脚注注釈出典
外部リンク
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