松本隆
松本 隆(まつもと たかし、1949年7月16日 - )は、日本の作詞家、ミュージシャン。ロックバンドはっぴいえんどの元ドラマー。東京都出身、兵庫県神戸市在住[1]。 略歴東京都港区の青山で生まれた。父は元南九州財務局長、仙台銀行相談役の松本亘司(のぶじ)[2][3][4]。母は伊香保温泉の石段街にある明治時代から続く写真館(斎藤写真店)の娘である知子。少女時代は「伊香保小町」といわれるほどの美人であり、国鉄のポスターモデルにもなったという[5][6]。なお、両親ともに群馬県出身である[5]。 港区立青南小学校、慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校卒業。慶應義塾大学商学部中退[7][8]。生まれ育った青山を基点として、多感な時期に多くの時間を過ごした乃木坂や麻布、六本木や渋谷界隈の範囲を「風街」と呼び、心の拠り所として愛している。音楽的にはビートルズの影響を強く受けたと語っている。また、妹が生まれつき病弱で早くに亡くなっており(1980年[9])、そのことが詞が優しいといわれる理由ではないかと自ら語っている。 1968年に細野晴臣が掛け持ちしていたバンド「バーンズ」のドラマーとして活動中に小坂忠、柳田博義、菊池英二らに細野とともに誘われエイプリル・フールを結成(当時は「松本零」名義)した。この時期に常に本を持ち歩いていて文学青年に見えたことから、細野より「松本、詞を書け」といわれ作詞を担当するようになる。エイプリル・フールが短期間で解散した後、細野、大瀧詠一、鈴木茂と「ヴァレンタイン・ブルー(後のはっぴいえんど)」を結成した。松本が出演したラジオ番組によれば、作詞は細野から「こんな詩を書け」といわれて渡された輸入盤レコードの歌詞を大学の友人に訳してもらい、自分なりに似せて作ったところから始まったという。 はっぴいえんど在籍中は、つげ義春や永島慎二など『ガロ』系漫画や渡辺武信の現代詩に影響を受けた独特の作風で[要出典]、都市に暮らす人々の心象風景を「ですます」調で描き、一部に熱狂的支持者を生むとともに、日本語ロック論争の発端となった[10]。また、メンバーにはそれぞれ別名があり、松本は「江戸門弾鉄」[注釈 1] 名義で初期の大瀧のソロ曲の作詞も担当した。五つの赤い風船の「えんだん」で初めて、他のミュージシャンに詞を提供した。 はっぴいえんど解散後はムーンライダーズ(オリジナル・ムーンライダーズ)として活動する傍ら、作詞家兼音楽プロデューサー業を始める[10]。しかしプロデュース第一作の南佳孝の『摩天楼のヒロイン』完成後に、南から「(歌詞が松本隆の世界すぎて)これはあなたのアルバムだ」と言われ、音楽プロデューサーとしての情熱を失ったという。その後、あがた森魚の『噫無情(レ・ミゼラブル)』、岡林信康の『金色のライオン』などのアルバムのプロデュースも行ったが、それ以降プロデューサー業からは退き、またオリジナルムーンライダーズからも脱退し、作詞家としての活動に専念することになった。 歌謡曲の作詞をするようになったきっかけのひとつに、音楽プロデューサーの木崎賢治との出会いがある。フリーのレコーディング・エンジニアやディレクターをしていた吉野金次を介し、木崎と知り合う。松本は歌謡曲の作詞をしてみたいと伝えると、木崎は吉野が当時担当していたアグネス・チャンの楽曲への作詞提供を提案。そしてアグネス・チャンのオリジナル・アルバム『アグネスの小さな日記』(1974年3月発売)の収録曲を数曲作詞し、その中の一曲「ポケットいっぱいの秘密」(1974年6月10日発売)がシングルカットされ、スマッシュヒット[11]。これがきっかけで歌謡界に本格進出する[12]。「ポケットいっぱいの秘密」のシングルカットに際してはアグネスが当時所属していた渡辺プロダクション社長の渡辺晋の高い評価があったという[12]。ほぼ同時に、チューリップ「夏色のおもいで」を作詞し、これがすでに作曲者として名を成していた筒美京平の目に留まる[13]。それがきっかけで松本は筒美と仕事をするようになり、アグネスと同じ渡辺プロダクション所属だった太田裕美が歌った「木綿のハンカチーフ」(1975年12月21日発売)の大ヒットにより作詞家として注目される[10]。歌謡界に身を投じたきっかけは、『ヤングギター』編集長の山本隆士に「メジャーな分野で詞は書かないのか」と問われたことだった。松本が「あんなものはいつでも書ける」と言い放ったところ、「言った以上は証明してみろ」と山本にいわれ、「それならやってやろうじゃないか」となった。初めは歌謡界を見下していたが、「この詞には曲をつけられないだろう」と筒美に「木綿のハンカチーフ」の歌詞を持っていったところ、あっさりと曲をつけられてしまった。以後、考えを改め、作詞に没頭するようになった。 1970年代後半までに手掛けた特筆すべき仕事は、1975年の「木綿のハンカチーフ」の作詞ぐらいであるが[14]、1978年に一連の原田真二作品の作詞を手掛けて世間に知られるようになった[14]。松本自身、「1970年代後半は歌謡曲の駆け出し。駆け出しといっても、78年頃にはトップの方にいた」と述べている[14]。 筒美京平とのコンビで中原理恵「東京ららばい」、桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」、近藤真彦「スニーカーぶる〜す」など、合計約380作品を手掛ける一方、1980年代よりはっぴいえんど時代の仲間たちを歌謡界に呼び寄せ、ヒットメーカーとしての快進撃が始まる。ミリオンセラーとなった細野とのイモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」や大瀧の大ヒット・アルバム『A LONG VACATION』、第23回日本レコード大賞を受賞した寺尾聰の「ルビーの指環」、そして松田聖子の24曲連続オリコン1位中17曲を手掛けるなど、阿久悠に代わり歌謡界で一時代を築き上げた[注釈 2]。松田聖子についてはプロデューサーの若松宗雄、編曲の大村雅朗とともに「聖子プロジェクト」の主要メンバーとして聖子を支え、松本の人脈を活かして作曲家を起用するなど、作詞家の範疇を超え総合的な曲のプロデュースに関わっていた[15]。歌謡曲における“松本・筒美”コンビの名は後に伝説と化す。 その後も薬師丸ひろ子、斉藤由貴、中山美穂、C-C-Bなど多数のアイドル、アーティストに詞を提供したが、1989年に一時作詞家としての活動を「休憩」。1994年に本格的に作詞活動を再開するまでの間は能・歌舞伎・オペラ・クラシックなどの「古典」にはまり、1992年にはフランツ・シューベルト『冬の旅』の現代口語訳を手掛けた[16]。作詞以外の文筆活動も行っており、代表作ともいえる私小説『微熱少年』は、自身が監督して映画化された。これは作詞を担当した鈴木茂の曲と同名タイトルである。 現在は自主レーベル「風待レコード」を設立し若手の育成に努めながら、KinKi Kids、中川翔子のヒット曲も手掛けるなど活躍中である。ドラマ『のだめカンタービレ』では松田聖子の「ピンクのモーツァルト」を引用し、アニメ『マクロスF』の挿入歌「星間飛行」のヒットなどで新たな世代にも存在をアピールした。 クラシック音楽にも造詣が深く、シューベルトの歌曲集「冬の旅」(1992年)、「美しき水車小屋の娘」(2004年)、「白鳥の歌」(2018年)[17] に現代日本語訳をつけた。1999年には、カナリア諸島へ伝説の指揮者カルロス・クライバーの演奏会を聴きに行ったことがある[18]。また純邦楽作品として「幸魂奇魂」[2] 古事記より作曲「藤舎貴生」第54回日本レコード大賞企画賞受賞作品 米国・韓国・中国のドラマ・映画にも耽溺しているといわれる。近年の趣味ではオンラインゲームも嗜むようになり、以前開設していた松本自身のウェブサイトでは「エバークエスト2」などゲームのスクリーンショットまで載せるほどのゲーマーっぷりを発揮していた。愛車はレクサス・RC F[19] と レクサス・LC [20]。綾瀬はるかのファン[21]。 2013年、慶應義塾大学特選塾員となる。またこの年、神戸へ移り住んだ[1]。 2015年8月21日・22日、『松本隆 作詞家活動四十五周年記念オフィシャル・プロジェクト』の集大成ともいえる『風街レジェンド2015』と冠したライブを東京国際フォーラムにて行った。松本が作詞を提供したアーティストらが数多く出演し、松本自身もはっぴいえんどのドラマーとしてステージに立った。両日とも公演時間は3時間30分以上に及ぶものであった[22]。なお、本ライブの模様は、Blu-ray化され、2021年12月22日にリリースされた[23]。 2020年11月2日、デビュー50周年を記念したトリビュートライブ『松本隆 50周年 風街古都 コトノハ』が京都コンサートホールアンサンブルホールムラタで開催された。但し、2019年以降の新型コロナウイルスによる感染拡大の状況を受け(「日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況」、「新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)」、「2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響」参照)、無観客での開催・有料生配信を行った。出演者は曽我部恵一、城領明子、ノラオンナ、花*花、山田兎。サプライズゲストに岡林信康。 2020年11月20日、『松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト』を始動[25]。同日、プロジェクトのスタートアップとしてWeb配信番組「〜松本 隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト〜風街ちゃんねる」を開局。同年12月12日に第1回を配信(月に1回、全6回。有料配信)。松本とともに宇賀なつみがMCを務め、毎回“風街の住人”をゲストに迎えて「作詞家・松本隆」のエピソードや秘話を時系列に沿って紐解いていくトーク番組[26]。2021年10月31日に最終回を配信した。 2020年12月10日、『松本隆作詞活動50周年トリビュートアルバム』の制作を発表[27]。 2021年7月14日、松本隆作詞活動50周年トリビュートアルバム『風街に連れてって!』がびいだまレコーズより発売。 2021年11月5日・6日、『松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト』の集大成ともいえるコンサート『風街オデッセイ2021』が日本武道館にて開催された。松本が作詞を提供したアーティストや縁のあるアーティスト40組以上が出演。松本は、細野晴臣、鈴木茂と共に、36年ぶりに"はっぴいえんど"のドラマーとして両日出演[28]。「花いちもんめ」「12月の雨の日」「風をあつめて」の3曲を披露した。MCにおいて、1966年にビートルズが日本公演を行った際に、当時高校生だった松本はステージの正面(南スタンド)で公演を観て感銘を受けたことが、バンドを組む切っ掛けであったことを明かし「今、ここに立っています。あそこからここまで50年かかりました。今日はリンゴ・スターと同じ、ラディックのドラムで」と感慨無量の言葉を述べ、万雷の拍手を受けた。 家族・親族父:松本亘司 - 1923年9月23日生まれ。茂十郎・むらの三男。元南九州財務局長、仙台銀行相談役。中央大学商学部卒業[2][3][4]。 母:知子 - 1926年11月10日生まれ。斎藤嘉平の長女。高崎市立高等女学校卒業[3]。実家は伊香保温泉の石段街にある明治時代から続く写真館・斎藤写真店。日本営業写真業界の草分けで、徳冨蘆花の撮影も担当した[5]。 弟:裕 - 1951年2月20日生まれ。レコーディング・エンジニア。株式会社ビークル代表取締役社長。日本大学生産工学部卒業[3]。 妹:由美子 - 6歳年下の妹で、生まれつき心臓が弱く、1980年6月13日に24歳で死去した。当時、 大滝詠一の『A LONG VACATION』制作中だったが、妹の死のショックに伴いスランプに陥り、一時詞を書けなくなる。松本は「別の作詞家を探してくれ」と言うも、大滝は、作詞は松本以外は考えておらず、松本が再び詞を書けるまで待った為、『A LONG VACATION』の発売が延期される。妹を喪った失意の中、渋谷の景色がモノクロームにしか見えなかった事が「君は天然色」の歌詞が生まれたきっかけとなった。 妻:これ迄に3度の婚姻・離婚歴あり。2016年に書道家の女性と3度目の結婚をするも、2019年に離婚した事が報じられた[29]。 主な作品→詳細は「Category:松本隆が制作した楽曲」を参照
以下に歌手、アーティスト、グループの五十音順で記述します。 あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行
ら行わ行
著書
映画
関連作品音楽
書籍・その他
ラジオ番組 記録・受賞歴オリコンシングル総売上枚数 - 4,985.4万枚(作詞家歴代3位)[35]
日本レコード大賞
その他
出演テレビ
CM・広告
PVラジオ
Web配信
連載脚注注釈出典
外部リンク
|