以仁王
以仁王(もちひとおう)は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。 生涯前史後白河天皇の第三皇子だが、『平家物語』では同母兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされている。同母姉に歌人として名高い式子内親王がいる。母親は藤原季成の娘・成子。 幼くして天台座主・最雲法親王の弟子となるが、応保2年(1162年)に最雲が亡くなり還俗。永万元年(1165年)に人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したという。その後、八条院暲子内親王の猶子となる[注 2]。幼少から英才の誉れが高く、学問や詩歌、特に書や笛に秀でていた。母の実家は閑院流藤原氏で家柄も良く、皇位継承において有力候補であったが、異母弟である憲仁親王(のちの高倉天皇)の生母であり権勢を誇った平滋子(建春門院)の妨害に遭って阻止されたという(『平家物語』)。ただし、これは「因果応報」を主題とする『平家物語』の方便であって、必ずしも史実に即した解釈とはいえない[注 3]。 特に仁安元年(1166年)、母方の伯父である藤原公光が権中納言・左衛門督を解官されて失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅し、親王宣下も受けられなかった[注 4]。 治承三年の政変治承3年(1179年)11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するが(治承三年の政変)、以仁王も長年知行してきた城興寺領を没収された[注 5]。治承4年(1180年)4月、ついに平氏討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。 以仁王の挙兵→「以仁王の挙兵」も参照
また自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れた。5月15日、平氏の圧力による勅命と院宣で以仁王は皇族籍を剥奪され、源姓を下賜され「源以光」となり、土佐国への配流が決まった。その日の夜、検非違使の土岐光長と源兼綱(頼政の子)が以仁王の館を襲撃したが、兼綱は頼政にこの動きを急報しており、以仁王はすでに物詣を装って脱出していた。16日に入って以仁王が園城寺に逃れていることが判明し、21日に平氏は園城寺への攻撃を決定する。その中の大将には頼政も入っており、この時点では平氏は以仁王単独の謀反と考えていたと思われる[注 6]。 頼政はその日のうちに子息たちを率いて園城寺に入り以仁王と合流した。しかし園城寺と対立していた延暦寺の協力を得ることができず、また園城寺内でも親平氏派が少なくなく、このままでは勝ち目が薄いと判断した以仁王と頼政は南都の寺院勢力を頼ることに決めた。 治承4年(1180年)5月26日、頼政が宇治で防戦して時間を稼いでいる間に以仁王は興福寺へ向かったが、同日中に南山城の加幡河原で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討たれた。『平家物語』は、飛騨守景家の軍勢によって光明山鳥居の前で討たれたとする。 死後しかし王の顔を知るものは少なく、東国生存説が巷に流れた[4]。以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったが、彼の令旨を受けて源頼朝や木曾義仲など各地の源氏が挙兵し、これが平氏滅亡の糸口となった[5]。なお朝廷は当初この令旨を偽物と考えていたが、後にこれが本物である疑いが出てきたこと、加えて以仁王が高倉天皇(以仁王の弟)及び安徳天皇(以仁王の甥)に替わって即位することを仄めかす文章が含まれていたことに強く反発した。後白河法皇にとって高倉天皇は治天の権威によって自らが選んだ後継者であり、その子孫に皇位を継承させることは京都の公家社会では共通の認識であったためである。このため、京都では以仁王の行動は次第に皇位簒奪を謀ったものと受け取られるようになっていった[注 7]。乱から16年が経過した建久7年(1196年)になっても以仁王は「刑人」と呼称されて謀反人としての扱いを受けている(『玉葉』建久7年正月15日条)[注 8]。 第一王子の北陸宮は義仲のもとに逃れてその旗頭に奉じられ、また第二王子の若宮は平氏に捕まり、道尊と名乗って仏門に入った。八条院三位局(高階盛章の娘)が産んだ王女である三条宮姫宮は、建久7年(1196年)に八条院より安楽寿院・歓喜光院などを一期分として譲与されている。 旧跡墓所京都府木津川市にある高倉神社には以仁王が祀られており、境内には後世、村人によって神社境内に葬られたという王の墓と伝えられる陵墓がある。神社そばにある筒井浄妙墓という塚があり、この塚も以仁王墓の陪冢として王墓とともに宮内庁が管理している。
神社以仁王を主祭神として祀る神社がいくつか存在する。
伝承
系譜系図
関連作品
脚注注釈
出典参考文献
関連項目外部リンク |