臣籍降下臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような(広義における)皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言う。身分制度が廃止された日本国憲法下においては、皇籍を喪失することを「降下」と表現するのは不適切とされ、皇籍離脱(こうせきりだつ)が用いられる。本記事では、一旦臣籍に下ったもの(あるいはその子孫)が再び皇族となる皇籍復帰についても記載する。 皇籍離脱に関する現在の規定
→詳細は「皇室会議」を参照
また、皇室会議での合議を要する事項の内、皇籍離脱に関わる事項は以下の通り。
沿革→「身位」も参照
古代律令の規定では、皇族(当時の言葉では「皇親」)の範囲を、歴代の天皇からの直系の代数で規定しており、四世(直系の4代卑属、以下同)までは王あるいは女王と呼ばれ、五世王は皇親とはならないものの王号を有し従五位下の蔭位を受け、六世目からは王号を得られないものとされた(もっとも、慶雲3年(706年)2月の格で変更あり)。そのため、歴代天皇から男系で一定の遠縁となった者は順次臣籍に入るものとされた。 しかし、平安時代前期の皇室が多くの皇子に恵まれると、規定通りに解釈した場合の四世以内の皇族が大量に発生することになり、しかもそのほとんどが皇位継承の可能性が極めて低い状態になった。また、皇族の中には国家の厚遇にかこつけて問題を起こす者もいた。これらの皇親に対しても律令の定めにより一定の所得が与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承の可能性がなくなった皇親たちは、五世になるのを待たずに、臣籍降下をさせる運用が始まった。特に桓武天皇は一世皇親3名[注釈 1]を含む100名余りに対して姓を与えて臣籍降下を行った[1]。嵯峨天皇はじめ、以降の天皇も多くの子女を儲け、その多くが一世で臣籍降下した。 また、この頃になると、皇族が就任できる官職が限定的になり、安定した収入を得ることが困難になったため、臣籍降下によってその制約を無くした方が生活が安定するという判断から皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。だが、臣籍降下して一、二代ほどは上流貴族として朝廷での地位を保証されたが実際には三代以降はほとんどが没落して地方に下向、そのまま土着し武士・豪族となる例が多かった。 臣籍降下した元皇族は、新たに氏および姓(かばね)を下賜されて、一家を創設することが多かった(皇親賜姓、こうしんしせい)。一方で、臣下の養子(猶子)となる形で臣籍に降下する例もあった(皇別摂家)。 なお、臣籍降下に際して、諱については、王号が除かれるのみで改めないのが通常であるが、葛城王(橘諸兄)から諸兄、以仁王から以光などのように改める事例もある。
古来は、多様な氏が与えられていたが、平安時代に入ると、源氏および平氏のいずれかを与えるのが常例化する。
姓は、上代においては、第9代の開化天皇以降の皇別の氏族には公(きみ)が与えられていた。その後、八色の姓が制定されると、第15代の応神天皇以降の皇別の氏族には多くの場合真人が、事情によりそれに続く朝臣又は宿禰の姓が与えられた。与えられる氏が源平に固定されると姓(かばね)も朝臣に固定されるようになる。 中世~近世やがて、それまでは天皇との血縁関係によって自動的に与えられていた親王あるいは内親王の称号は、特に皇位継承候補を人為的に選別して天皇からその身分を与える、親王宣下の制度が定められ、逆に親王宣下をされなかった王は臣籍降下をするようになる。これによって、当初の律令の規定とは逆に、皇籍に残すか否かの決定が先にあり、その結果を親王/王の称号の差で公認する運用が定着する。 院政期以降は、公家における家格の形成が進み、家格秩序を崩しかねない皇親賜姓による新規の公家の創設に消極的になったことから、それまでは臣籍降下していた傍系の皇子は幼少の頃に出家させて法親王としての待遇を与えて子孫を遺させない方針を採るようになる。やがて皇位継承又は直系の血統が絶えた時の備えとしての世襲親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮)相続と無関係の皇族は出家する慣例となり、賜姓皇族はほとんど現れなくなった。鎌倉時代以降、臣籍降下を行って新たに立てられて明治時代まで存続した堂上家は広幡家のみであった。 旧皇室典範→「永世皇族制」も参照
明治維新前後の動乱期において、伏見宮家の邦家親王所生の多くの男子が還俗して、新たな宮号を名乗った。明治に入ると、これらの宮家の整理が図られる。 明治15年(1882年)、内規取調局が作成した「皇族内規」の初案では、「一世のみ親王」「四世王までは皇親」「五世から八世は皇親ではないが王の称号を与える」「九世には公爵を下賜(=臣籍降下)」として、律令規定を拡大する形で、世数をもとに臣籍降下を行う方針であった。 ところが、明治22年(1889年)に成立した皇室典範(いわゆる旧皇室典範)では、「四世までは親王」「五世以降は永世にわたって王」とされ、臣籍降下は永久に行わない永世皇族制がとられた。枢密院で行われた審議において、旧公家出身の三条実美内大臣は「将来皇族の数が増えすぎて、経費を賄えずに体面を汚す恐れがある」と反対したが、原案起草者の井上毅は「臣籍降下は古制に規定がなかった」と反論して、最終的には原案通り可決された。これにより、伏見宮系統の新規の宮家も子孫に継承されるようになり、宮家の数は増大した。 皇室典範が永世皇族制をとった理由としては、当時の明治天皇は男子に恵まれず、唯一夭折を免れた嘉仁親王(後の大正天皇、典範制定時に10歳)が病弱であったため、万が一の時の後継が必要とされたためである。しかも、江戸時代は世襲親王家の嫡子以外の男子は出家をして子を残さなかったため男系での近親が少なく、八世以内の宮家は有栖川宮のみ(当主の熾仁親王が五世)であったため、男系で遠く離れた伏見宮系統の新しい宮家(邦家親王の男子が十五世)も存続を認められたのである。 一方で、女性皇族が臣下の男性と婚姻した場合、旧来は皇族の身分を保持したままであることが通例であったが、皇室典範ではこれを改め、「臣籍にある者」と婚姻した場合(旧第44条)、皇室典範では「天皇及び皇族以外の者」と婚姻した場合(第12条)、例外なく皇籍を離脱することが定められる。ただし、旧皇室典範では、婚姻の相手は皇族・王公族・華族に限定され(旧第39条、皇室典範増補)、また内親王・女王の身位を保持する余地が残された(旧第44条)。 →詳細は「降嫁」を参照
→「身位」も参照
養子による臣籍降下については、この時点の皇室典範では規定がなかった。
皇室典範増補その後、嘉仁親王は無事成人し、四人の男子に恵まれた。一方で他の宮家は、有栖川宮家は後継に恵まれず断絶したが、伏見宮系の宮家は存続し、邦家親王の孫の世代の男子も続々と宮家を創設、宮家の数はさらに増加した。皇統断絶の危機はひとまず去ったため、今度は永世皇族制の修正、宮家の増加の抑制が図られるようになる。明治40年(1907年)、皇室典範増補が成立し、以下のように定められた。
これにより、五世以下の王は、宮家を立てずに臣籍降下をする道が開かれた。ちょうどこの年成年を迎えた北白川宮家の輝久王(邦家親王の孫の世代の最年少)が、明治43年(1910年)に臣籍降下して小松侯爵となったのが初例となった。
また、典範制定時は一旦廃絶された、養子による臣籍降下については、増補第2条により、王は、華族の家督相続人となることが認められるようになった。もっとも、実際にこの規定が実行されたケースはなかった。が、傍系の男性皇族が臣籍降下するとき、廃絶した宮家の祭祀を継承した例はある。 皇族降下の施行準則この後は伏見宮系の男性皇族で成年を迎える世代がしばらくおらず、具体的な運用面で問題になることはなかったが、邦家親王の曾孫の世代の男子が成年を迎える頃になった大正7年(1918年)頃から、更に具体的な臣籍降下の基準作りがはじまる。同年、波多野敬直宮内大臣が、臣籍降下の基準の作成を帝室制度審議委員会(伊東巳代治委員長)に依頼、同委員会での議論を経て、大正9年(1920年)、枢密院に「皇族の降下に関する内規」が提出され、更に枢密院は「皇族の降下に関する施行準則」と改めて、可決した。次いで、同年5月15日、皇族会議に諮詢された。 しかし、この準則で臣籍降下の基準を明文化することについては、皇族を勅旨によって強制的に臣籍降下させることを原則とすることや、運用が一律・機械的になることへの懸念などが出され、枢密院の審議では、個別の事情に応じて判断する旨の説明なされた。皇族会議でも一部の皇族が異論が出されたため、宮内省側は、皇族会議令第9条の規定を利用して採決を行わず、議長であった伏見宮貞愛親王の判断のみで皇族会議を通過させ、5月19日に大正天皇の裁定によって成立することとなった。
この規則により、王の臣籍降下の基準として、「現に存在する宮家の継承者以外(=長男以外)」という要件が加わった。また、「長子孫の系統四世」(王として四世、つまり親王を含むと八世)を超えた場合、すなわち天皇から数えて九世の王は、宮家の長男であろうが全員が臣籍降下をすることになっていた。ただし、当時の伏見宮家系統の皇族は全員が九世を大幅に超過しており、そのまま適用すると直ちに全員が降下することになっていたことから、特別に邦家親王を四世親王とみなして運用するようになった。 この年の7月に成年を迎えた山階宮家の芳麿王が早速この準則の適用第一号となり、以降、この要件を満たした王の臣籍降下が続いた。 なお、運用面では、勅旨によって強制的に降下するのではなく、皇室典範増補第1条に基づく「情願による賜姓降下」がとられて、建前上は各皇族の自発意思によるものという形式がとられた。また、この運用の期間中、「個別の事情に応じて判断」して皇籍に残ったケースはなかった。 また、九世王は全員が降下する規定については、この世代が成年を迎える前に、運用自体が失効したため、実際に適用されることはなかった。
1947年の11宮家の臣籍降下昭和20年(1945年)、第二次世界大戦の敗戦により、日本は連合国軍による占領を受け、主権を一時喪失する。敗戦政策の中で、皇族の大多数は、臣籍降下を余儀なくされた。 まず、敗戦直後から一部皇族は、敗戦の責をとってぞ初的な皇籍返上を申し出ており、特に、敗戦直後に首相として一時政治を担った東久邇宮稔彦王は首相辞任直後の10月12日、宮中改革の一環として傍系宮家は臣籍に下り、一国民として仕えるという持論を公表する。しかしこの意見に対しては、皇室内部からも、宮家の減少は「皇位の安定的継承に支障をきたす」(三笠宮崇仁親王、11月16日)等の反対意見が出され、東久邇宮は持論を撤回、皇族の側からの臣籍降下の申し出はなされなかった[2]。また昭和天皇も、連合国の許す限り全ての皇族と行動を共にする決意であり、臣籍降下の申し出があったとしても、よほどの深い条理がない限りは勅許しない考えであった[3]。 しかし、日本の占領行政を担った連合国軍最高司令官総司令部(以下、GHQ)は、直系の皇統が途絶えた時に皇位を引き継ぐための控えとして存在している宮家を、「天皇となる可能性の非常に低い者」と表現し、そのような者まで皇族として遇し、歳費を支出している現状を問題視する[4]。昭和21年(1946年)5月頃、加藤進宮内庁次長はGHQとの意見交換によりこの方針を受け取り、当時の14宮家の内、天皇の弟宮である秩父・高松・三笠の3宮家を除いた、伏見宮系統の11宮家を引き続き皇族として遇するのは困難であるという結論に達し、天皇、皇后、皇太后に奏上、内諾を得る[5]。直後の5月21日、「皇族の財産上その他の特権廃止に関する総司令部覚書」(SCAPIN1298A)が発令。14宮家への歳費支出は5月分をもって打ち切ると通告[注釈 2]、また課税の免除もなくなる等、皇室は経済面で苦境に立たされる[7]。5月28日、31日の両日、皇族情報懇談会で加藤次長から皇族に説明があったが、皇族間からは、皇室の重大事を加藤次長が独断で決定、事後報告としたことに反発の意見が示される[8]。また、降下についても、「国家存亡の際、われわれ皇族には皇族として何か御奉公すべき途があるのではないか」(竹田宮恒徳王、7月2日皇族親睦会にて発言)等、臣籍降下に否定的な意見が多かった。 しかし、GHQは経済面での締め付けを続けた。8月15日、チャールズ・L・ケーディス民政局次長は「彼等を貧窮に陥れようとは絶対に考えて居ない」と述べつつ、その「彼等」として想定していたのは3宮家のみであった[3]。11月2日、同じくケーディス次長は、「臣籍に降下せられる(略)別に反対があるわけではないが」と述べる等、あくまで日本側が自発的に行う形で、臣籍降下への道筋はつくられた[4]。 この情勢の中で、内廷皇族及び3宮家を守ることを優先するため、11宮家を臣籍降下させることを決定[9]。11月29日、天皇より11宮家に対して直々に、「情においては誠に忍びないが、直宮三家を残し、一同は臣籍降下を決意されたい」と、言い渡される[10]。翌昭和22年(1947年)10月13日の皇室会議での議決を経て、14日、11宮家51名が臣籍降下した。 この時の臣籍降下は、皇室財政の圧迫によるやむを得ない実施というイレギュラーなものであったことから、天皇は「従来の縁故と云ふものは今後に於いても何等変わるところはないのであって将来愈々お互いに親しく御交際を致し度いと云うのが私の念願であります」と、臣籍降下以降もこれまでと同様の交際を行う考えであることを述べる。また、臣籍降下前に宮内庁文書「近く臣籍降下する宮家に対する降下後の宮中における取扱方針」が作成されてその待遇が公文書で定められる、親睦団体としての菊栄親睦会が新たに組織される、園遊会や即位の礼においては席次が首相よりも上位で遇される等、現在に至るまで、皇族に准じる存在とされている[11]。 また一般的にも、歴代の臣籍降下をした者のうち、この時の11宮家及びその子孫を「旧皇族」と呼称して特別視されており、平成後期に発生した皇位継承問題においても、旧皇族の皇籍復帰の可能性が議論されている[注釈 3] →詳細は「皇位継承問題」を参照
現代上記の昭和22年以降の皇籍離脱は、いずれも、女性皇族が臣下の男性と婚姻をした際に限られている。 皇籍復帰一度臣籍に降下した後には皇籍に復帰することは許されないのが原則であるが、皇位継承に備えるなどの事情に応じて、皇籍に復帰する事例も比較的多く見られた。また、臣籍降下後に生まれた子が、親が皇籍復帰すると同時に新たに皇籍を付与される事例もある(ただし、天皇の子が無条件に親王・内親王とされた律令法の原則が親王宣下(内親王宣下)の概念が導入された時点で崩れた結果、天皇の子の身分は時の天皇の判断によって異動できるものとされ(「身分と身体の分離」)、臣籍降下と同じように皇籍復帰も可能と解釈されていたとする見解もある[14])。 臣籍降下および皇籍復帰の例
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク |