円珍
円珍(えんちん)は、平安時代の天台宗の仏教僧。天台寺門宗(寺門派)の宗祖。諡号は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。宝号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」。 唐で学んだ入唐八家(最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡)の一人。 概説弘仁5年(814年)、讃岐国(香川県)金倉郷に誕生。多度郡弘田郷の豪族佐伯氏の一門のひとり。俗姓は和気。字は遠塵。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる。生誕地は善通寺から4kmほどのところ。幼少から経典になじみ、15歳(数え年、以下同)で比叡山に登り、延暦寺の義真に師事、12年間の籠山行に入る。 承和12年(845年)、役行者の後を慕い、大峯山、葛城山、熊野三山を巡礼し、修験道の発展に寄与する。承和13年(846年)、延暦寺の学頭となる。仁寿3年(853年)、新羅商人の船で入唐、途中で暴風に遭って台湾に漂着してから、同年8月に福州の連江県に上陸した。以後、天台山国清寺に滞在しながら求法に専念。斉衡2年(855年)には長安を訪れ、真言密教を伝授された。 天安2年(858年)、唐商人の船で帰国。帰国後しばらく金倉寺に住み、寺の整備を行っていた模様。その後、比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)に延暦寺第5代座主となる。これに先立つ貞観元年(859年)に園城寺(三井寺)の長吏(別当)に補任され、同寺を伝法灌頂の道場とした。後に、比叡山を山門派が占拠したため、園城寺は寺門派(天台寺門宗)の拠点となる。 寛平3年(891年)10月29日、入寂。享年78歳。三井寺には、円珍が感得したとされる『黄不動』『新羅明神像』等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上も注目される。 延長5年(927年)12月27日、醍醐天皇より「法印大和尚位」と「智証大師」の諡号を賜る。 著作著作は90を数え、円珍の教えを知る著作である『法華論記』『授決集』の他、自身の書いた入唐旅行について記した『行歴抄』など著名である。『智証大師全集』全3巻がある。『行歴抄』では、円載との確執が描写されている[1]。 肖像円珍は、園城寺では宗祖として尊崇され、同寺には国宝の彫像をはじめ、多くの円珍像が伝わる。同寺唐院大師堂には「中尊大師」「御骨大師」と称する2体の智証大師像があり、いずれも国宝に指定されている。いずれの像も頭頂が尖り、頭部の輪郭が卵型を呈する独特の風貌に特徴がある。これを「霊蓋」(れいがい)といい、左道密教では未来を予知できる能力を備えるとされ、非常に崇められた。反面、その験力を得ようと切り取られることもあったため、入唐時に諭され非常に警戒された。 円珍の書書風は「枯枝のような」と評される独特のものである。真跡は20余点現存し、その代表的なものは次のとおりである。
円珍関係文書典籍の「世界の記憶」登録円珍が唐に渡る際に、九州の大宰府で交付された渡航証明書や、唐の役所で発給された通行許可証など合計56件で構成される「智証大師円珍関係文書典籍―日本・中国の文化交流史―」が2023年5月24日、ユネスコの「世界の記憶」に登録された[3][4]。 脚注
関連項目参考文献
外部リンク |