台南市
台南市(タイナン-し、繁体字中国語: 臺南市/台南市)は、台湾南西部に位置する中華民国の直轄市。 概要台湾島で最も早くから開けた地区の一つであり、古称は「台湾」、「台湾府」。「台湾」という地名は、もともと台南一帯の一地域を指し、後に台湾島全体を指す地名となった。 オランダ人はここに根拠地ゼーランディア城を置いた。清朝時代初期相当の鄭氏政権下の台湾の首府であり、政治・経済・文化の中心地であった。日本統治時代に台湾の中心地は台北に移ったものの、その後もしばらく台北に次ぐ地方都市として発展した。現在は台湾六大直轄市の一つで、合併後の人口は約189万人(2017年3月)。 多くの旧跡が残り、現代的な都市景観と併存している。台南小吃(中国語版記事)で知られるグルメの町でもある。また、観光業に伴う結婚写真撮影専門店の数が多いことでも有名である。 かつて製糖業が盛んであったが、1990年代にほぼ操業停止した。製糖の土地は多く工業団地・科学園区(サイエンスパーク)に転換し、TSMC・UMCなど世界屈指の半導体製造ファウンドリの生産拠点になる。 台南は台北などに比べて台湾語が日常的に使用されている地域であり、歴史も古いことから、台南方言が台湾語の標準と見做されている。 地理地形台南市の行政区は北側が広く、南に行くにつれて狭くなる三角形の形状で台南県(一部高雄市)に囲まれている。嘉南平原に位置するため地勢は平坦であり、市全域で海拔10-30mの間、最高でも海拔約40mという丘陵地がほとんど見られない特徴を有している。その域内は台南台地、大湾低地、安平平原、桜丘砂丘と分類することができる。 台南台地は台南市東部に位置し、孤立した楕円形の台地である。北側には曽文渓、南側には三爺宮渓と接しており、東側は崖で大湾低地と接しており、西側はなだらかな傾斜で安平平原へと繋がっている。南北約12km、東西約4kmであり、稜線の海抜は25-30m程度であり、台南市最高地点の海抜40m「網寮」もこの台地にある。 大湾低地は台南台地の東に位置し、大部分は台南県永康市に位置している。西側は地崖により台南台地に接しており、長さ12.5km、幅3kmで大部分は標高10m以下の地勢を成している。古くから集落が形成されていたこの地域では台南台地との境界が開発により曖昧になりつつある。 安平平原は台南市西部の沿海部に位置し、地殻変動により隆起した海岸平原である。平原の標高は海抜2-3mであり、曽文渓三角州の一部を形成している。この地域ではオランダ統治時代は台江内海潟湖であり、外側は砂嘴を形成していた。時代とともに干拓開発が進み、現在では台南市の新中心部となっている。 桜丘砂丘は台南市南部に位置し、台南孔子廟一帯より南に向かって伸び、二仁渓附近までの約7km、最大幅3kmにわたって存在している砂丘である。 河川台南市の主要な河川は曽文渓、二仁渓、塩水渓および鹿耳門渓がある。このほか、竹渓寺渓、柴頭港渓などが東より西に流れ、台湾海峡に注いでいる。台南の河川は季節による水量の差が大きく、冬季は石礫が目立つ河川敷であるが、夏季には豊富な水量となっている。 気候ケッペンの気候区分では温帯夏雨気候 (Cwa)(熱帯モンスーン気候 - 温暖湿潤気候移行部型)に属する。
地域行政区画歴史台南は1661年に顔思斉、鄭芝龍らが以笨港を占拠し、台江(現在の七股区)に根拠地を築いた記録があり、早くから漢人の入植が進められていた。 オランダ統治時代1624年、明との貿易を求めるオランダによって台南に根拠地が設けられ、漢人の入植地に侵入するとともに、原住民への教化を行うなどの活動を開始した。1627年、日本と交易する諸外国船(特に、スペイン、ポルトガル)から税金を徴収していたオランダを威嚇するために日本から朱印船が派遣され、船長の浜田弥兵衛が台湾行政長官ピーテル・ノイツを人質にとった(タイオワン事件)。オランダ東インド会社は、課税はノイツの独断によるものであったとして日本に出頭させ、謝罪を表した。これ以降、日本との交易の独占を目指すオランダは、島原の乱では幕府を援助し、ポルトガルやスペイン等のカトリック国に対する幕府の不信感を煽り、これが鎖国へとつながった。1636年には新港社(現在の新市)に台湾初の学校を建設した。これにより後世新港文書と呼ばれる、当時の口語をローマ字により転写された文書が作成されたのはこの時代である。 明鄭統治時代明の滅亡後、鄭成功が台湾を拠点に反清復明の運動を開始すると、明の行政区分を援用し台南地区に承天府と天興県と万年県を設置した。当時の台南地区は鄭成功の重要な拠点とされ、軍隊による屯田および漢人の入植も台南を中心に行われた。この時代に由来する地名としては新営、柳営、下営などが現在でも残っている。1665年には承天府寧南坊に台湾初の孔子廟を建設した。鄭成功の死後、息子の鄭経は承天府および東都を廃止し、東寧王国と改号、天興県と万年県を州と改めた。 清朝統治時代1684年、台湾を平定した清朝によって、台湾には台湾府および台湾、鳳山、諸羅の3県が設置された。台湾および諸羅が現在の台南県の地域に該当する。当時の台湾の中心は台南であり、そこを基点に南北に開発が進行した。1726年には台湾府知事蔣毓英が現在の永康区に洲仔尾塩場を設置するなど、経済活動も活発に行われていた。1831年には現地の農民である欧陽安により虎頭埤が現在の新化区に設けられ灌漑が実現している。当初は限られた地域への灌漑に限定されていたが、その後も整備が進み、現在では台湾を代表する農村風景となっている。 商業経済面では1860年に台湾が対外的に開港したことで、茶葉、砂糖、樟脳の輸出が開始される。台南地区は砂糖の主要生産地であり、1890年代には台湾全土の製糖所1,275か所のうち1,057か所を占めるようになっている。 清末に日本の台湾出兵を受け、清朝の側にも海防意識が高まり、台湾での軍事施設の建設が推進される。1888年、台湾巡撫の劉銘伝により台湾の重要性が強調されるなどした結果、福建台湾省が新設され、その下に台北、台湾、台南の3府が設置された。これが「台南」という地名の初見である。 日清戦争により日本に割譲されることになった台湾では、割譲に反対する清官僚らにより台湾民主国が建国される。その歴史は「第一共和」および「第二共和」の2期に及ぶが、第一共和がわずか10日で崩壊したのち、その後台南で第二共和が成立し、100余日に及ぶ抗争が始まる。 日本統治時代→詳細は「台南州」を参照
1895年9月12日、日本軍が南下し鉄線橋庄(現在の新営市)を占拠した翌日、郭黄泰、陳維邦、郭黄池、柯文祥らは各庄に呼びかけ抗日義勇軍を結成、鉄線橋庄を包囲して日本軍との激戦が2日間継続した。結局死傷者100余名を出して敗北するが、日本軍にも40余名の死傷者を出すなどの被害を与えた(鉄線橋事件)。 1896年、全島を平定した台湾総督府は4月に新官制を発表し、台湾、台北、台南の3県を設置する。当時の台南県の行政範囲はかなり広く、現在の台南市のみならず、雲林県、嘉義県、高雄県、台東県および花蓮県をも管轄としていた。 日本統治時代には台南でも近代化政策が推進され、1898年には大目降公学校をはじめ近代的教育機関が設置される。さらに翌年には台南慈恵院を財団法人として設立し、医療関係の整備も進んだ。交通面では1900年11月に台南と打狗(現在の高雄市)の間に鉄道が開通している。また、経済面では1903年に塩水港精糖株式会社が設立され、2年後には近代的な製糖事業が始まり、台湾の経済発展に大きく寄与している。 順調に見えた日本による台湾統治であるが、1915年に西来庵事件(台湾側では余清芳事件と称する)と呼ばれる武装抗日事件が発生する。余清芳、羅俊及び江定の3名が武装蜂起したが、日本官憲により摘発されるというものである。 そのような武装蜂起事件もあったが、1916年に台北と高雄を連絡する縦貫道路(現在の台1線)建設、1921年の烏山頭ダム建設の着工などが実施され、台湾の交通と農業の発展を柱とする近代化政策が着実に実現していった。
中華民国時代1945年の台湾光復に伴って台南州は台南県に改められ、台南市は台南県から分離されて台湾省の省轄市となった。しかし、1947年2月27日に台北市の闇タバコ取締りに起因する民衆蜂起、いわゆる二・二八事件が発生するとこの地方自治体制に深刻な影響を与えることになる。3月2日に台南地区でも大規模な民衆蜂起が発生、県長の袁国欽を初め県政府首脳は阿里山に避難してしまう。そのため、県の政務は軍の出動により事件が鎮圧される3月13日まで停止された。 1950年、中国国民党率いる中央政府より地方自治制度の改編が指示され、台南県は台南、嘉義、雲林の3県に分割された。新生台南県は7鎮、24郷を管轄するようになり、県政府も新営鎮に移された。そして1951年1月28日には台湾省各県市実施地方自治綱要に基づき第1回県議会選挙が行われた。 政治行政市長→詳細は「台南市長」を参照
対外関係姉妹都市・提携都市
経済第一次産業農業パイナップル・サトウキビ・マンゴー・稲・ザボンなどの生産が盛んである。 第二次産業工業かつては伝統的な製造業に依存していたが、1995年に「南部サイエンスパーク」が整備されると、半導体・集積回路・バイオテクノロジー・クリーンエネルギーなどのハイテク産業の中心地として発展している。 第三次産業商業台南市における最大の従業者をサービス業が占めている。都心部に、新光三越2店舗、FE21 2店舗、フォーカススクエアを含む5つのデパートがある。また郊外では、東区、北区、永康区に大規模な商業地区がある。 教育
スポーツスポーツ施設としては台南市立体育場や台南市立新営体育場の総合運動公園に代表される。また市内の学校ではスポーツの名門校とされる学校も多く、野球の南英商工、バスケットボールの新栄高中、サッカーの北門高中、ラグビーの六信高中等が著名である。
交通→「台南市の交通」も参照
空路空港鉄道高速鉄道
在来線
捷運
かつては台湾糖業が多くの路線を運営していたが(台湾糖業鉄道)、いずれも廃止された。布袋線・関廟線などを参照。 バス路線バス台南市内を走るバスとして、以下のバス事業者がある。 都市間バス台北、台中、嘉義、高雄、屏東など、台湾各都市へ向かう便が運行されている。以下のバス事業者がある。 道路
台湾の他の各都市と同様に、バイク(スクーター)の利用者が日本に比べて非常に多い。特に市街地では自動車の入れない細い路地も多いこと、駐車場の確保が高コストであることがスクーター人口の多さに拍車をかけている。それだけ排気ガスも多く、マスクの着用者が市街地では目立つ。また、車道沿いのさまざまな店舗(飲食店、衣料品店など)の前の路上には店舗利用者のスクーターが置かれる。 「租車」という看板を上げている店舗が台南駅を中心に多数あり、スクーターあるいは乗用車をレンタルしている。日本からの旅行者でも、日本の運転免許証とその公式翻訳文を提示することで容易に借りることができる。JAFが翻訳文発行業務の委託を受け、代行している。一方、台湾の道路では日本と逆で車両は右側通行であり、また習慣や法規の違いもあるので、実際に安全を確保しながら運行するのは容易ではない。なお、市内のコンビニエンスストアや書店で交通法規や安全運転に関する書籍を販売していることから、市民の意識の高さがうかがえる。 台南駅(在来線、「台南車站」)前、台南空港、主要ホテル近辺などにはタクシーが多数待機しており、観光のオフシーズンなら利用に困ることはない。台湾高鉄の台南駅からは、台湾鉄道(在来線)の沙崙線が台南駅まで接続している。従来の興南客運の運行する台南駅へのシャトル・バスは廃止となった。 航路港湾観光→「台南市の観光名所一覧」も参照
名所・旧跡国定古跡
国定古蹟 以上22件[6] 市定古跡
歷史建物
観光スポット
2015年以降、観光名所への更なる訴求手段として「府城少女」を市の公式萌えキャラクターとして生み出している[7]。 文化・名物→「zh:臺南文化」を参照
原住民族のシラヤ族の文化や1624年以降オランダの交易拠点が置かれたり、日清戦争以降の日本の統治によって、各地各種文化が入り混じっている。 出身関連著名人
脚注出典
関連項目外部リンク
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