城井鎮房
城井 鎮房(きい しげふさ、別名:宇都宮鎮房)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊前国の戦国大名。城井氏16代当主。城井谷城主。怪力無双の人物で強弓の使い手であったとも伝わる。 生涯天文5年(1536年)、城井長房の子として誕生。はじめ、貞房を名乗った。 城井氏は、豊前宇都宮氏とも言う。父・城井長房が本家筋の下野宇都宮氏の内紛への介入に熱心であったため、領国の管理を早くから任されていたという。最初は大内義隆に属していたが、義隆が陶隆房の謀反で殺されると、豊前国に支配権を確立した大友義鎮(後の宗麟)に服属。正室に義鎮の妹を娶り、義鎮から一字拝領し、鎮房と名を改めた。しかし、大友氏の勢力が天正6年(1578年)の耳川の戦い以降衰退すると(耳川の戦いには城井勢も参戦していた)、今度は薩摩国の島津義久に属するという巧みな処世術を見せている。 天正14年(1586年)より始まる豊臣秀吉の九州征伐によって、鎮房も秀吉に従うこととなったが、自身は病気と称して出陣せず、息子の朝房に僅かな手勢を任せただけで秀吉の不信を招く。天正15年(1587年)、秀吉は鎮房に伊予国への移封と、安国寺恵瓊を通じて、鎮房が所持する藤原定家の『小倉色紙』の引渡しを命じた。父祖伝来の地に固執し、家宝を守りたい鎮房はそれに反発し朱印状の受け取りを拒否し秀吉の怒りを買い、新たに豊前6郡の領主となった黒田孝高と不穏な空気が流れることとなった。鎮房の心情を良く知る毛利勝信は、鎮房に一度、城井谷城を出て、その後に秀吉への嘆願を行うことを提案し、鎮房は城井谷城を明け渡した。しかしたび重なる腹背に業を煮やした秀吉は頑として城井氏の本領安堵を拒否。鎮房はついに決断し、同年10月、城井谷城を急襲して奪回し、籠城して豊臣軍を迎え撃つこととなった。 地の利のある鎮房はゲリラ作戦により、攻撃してきた黒田長政が率いる豊臣軍を撃退した(岩丸山の戦い)。天険の要塞である城井谷城攻略に苦戦した孝高は付け城を築いて兵站を断つ持久戦をとり、他の国人勢力を攻め下していった。勝敗は決し12月下旬、本領安堵と鎮房の13歳になる娘・鶴姫を人質とする事を条件に、鎮房は降伏を受け入れた。 しかしながら長政は城井一族の過去のたび重なる腹背に鑑み懐柔の困難を判断し、将来的な禍根を一機に絶つ決心をする。 天正16年(1588年)4月20日、鎮房は長政の招きにより中津城へ向かったが、孝高が長政に授けた謀略により、合元寺に家臣団は留め置かれ、わずかな共の者と城に入った鎮房は酒宴の席で謀殺された。享年53。同行していた小姓・松田小吉は、京町筋で討死し、合元寺に留め置かれた家臣団も黒田勢との斬り合いの末、全員が討ち取られた。また、鎮房の父・長房も城井谷城に攻め寄せた黒田勢に殺害された。嫡男の朝房は肥後国人一揆鎮圧のために黒田孝高と同行して出陣中であった肥後国で孝高に暗殺された。4月22日、鶴姫は長政によって13人の侍女と共に、山国川の畔、広津の千本松河原で磔にされ殺害された[1][2]。しかし、懐妊していた朝房の妻・竜子が逃げ延びて男子(宇都宮朝末)を産み、その孫の宇都宮信隆(高房)が越前松平家に召抱えられて、城井氏の血脈はかろうじて保たれた。また、鎮房の弟の弥次郎が島津家臣となり、そこで子孫を残している[3]。 逸話
鎮房の亡霊と祟り
脚注
参照文献
関連作品
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