夏目房之介
夏目 房之介(なつめ ふさのすけ、1950年8月18日 - )は、日本の漫画批評家、漫画家、エッセイスト。自称は「漫画コラムニスト」。有限会社夏目房之介事務所代表取締役。元学習院大学大学院人文科学研究科教授。 経歴生い立ち1950年(昭和25年)、ヴァイオリニスト夏目純一の長男として、東京都港区高輪に生まれた。純一は夏目漱石の長男であり、房之介自身、若い頃には「漱石の孫」というレッテルを重荷に感じていたという。また、漱石の本名「金之助」と似た「房之介」という名前も嫌っていた[注 1]。 母・嘉米子はハープ奏者で、特異な趣味人で蒐集家であった三田平凡寺の末娘である。チェリストで画家の雨田光弘は、母方を通じて房之介の従兄にあたる。房之介にとって「祖父」といえば、会ったことがない漱石ではなく、自分を可愛がってくれた平凡寺のことだという。また自分の資質にも、漱石より平凡寺の影響のほうが強いという[1]。 教育熱心な母の意向で慶應義塾幼稚舎を受験したが、失敗する[2]。区立高輪台小学校時代から漫画を描くのが大好きで、「マンガのなっちゃん」と呼ばれた。中学から青山学院に入学する。祖父が夏目漱石ということで、同級生の女の子から顔をまじまじと観察され、「おじいさん(漱石)はハンサムだったのにね」と心ない批評をされ傷ついたこともあった[3]。国語の時間には、教師から「このクラスに漱石の孫がいるぞ」と言われるのが不愉快だったという。青山学院高等部在学中には美大進学も考えたものの結局は断念、青山学院大学文学部史学科に進み、中国史を専攻した。 大学在学中に実家を出て中野で恋人と同棲し、新宿や渋谷のジャズ喫茶に入り浸る青春を送った。吉本隆明、大江健三郎、ドストエフスキーなどを愛読していた。卒論のテーマは五四運動。 イラストレーター1973年(昭和48年)、卒業後に恋人と結婚して世田谷区給田に転居する。杉並区にあった小さな出版社「エルム社」の入社試験を受けたところ、「漱石の孫」と聞いて興味を持った社長の強力な後押しで採用が決定した。切手の雑誌『少年切手マガジン』の編集などに携わったが、就職後も片手間に挿絵イラストレーターとしての副収入を得、次第に仕事のウェイトを副業に移していた。就職3年目であった1976年(昭和51年)末にエルム社が倒産、夏目はそのままフリーのイラストレーターとして独立した。 この間、1975年に『週刊朝日』ナウナウ欄にイラストを発表[4]。同年に作品集『漫画』を自費出版し、尊敬する手塚治虫に見てもらった。同時期に赤塚不二夫にも作品を見てもらったが、このときは酷評を受けた。 しとうきねおとの共著、『なにがなんでも目立つ本 恐怖の道化学入門!(徳間書店、1976年)『ひまつぶし哄笑読本』(ベストセラーズ・ワニの本、1978年)を続けて刊行し、漫画家・ライターのしとうきねおのパロディ精神から大きな影響を受けた。 このころ、しとうきねおの紹介もあり「漱石の孫が漫画を描いている」という話を聞きつけた『週刊朝日』の取材を受けた縁から、1978年に始まった同誌の新コーナー「デキゴトロジー」のイラストを担当するようになり、これが1982年(昭和57年)に『學問』として夏目をメインとした漫画コラムへと発展するに至った(なお『週刊朝日』には「デキゴトロジー」以前に、1975年に「ナウナウ欄」のイラストを担当、1977年に「神罰てきめんルポ」のイラストを担当している[4])。この連載が夏目の名を有名にし、漫画コラムニストとしての評価を固めた。 また、1984年(昭和59年)に漱石の肖像が千円札に採用されると、直系の子孫としてマスコミから取材を受ける(裁断前のシートの形で貰えました、ウソです、というようなギャグで返したりしている)。1986年(昭和61年)ディレクターが夏目のファンであった縁からTBSのクイズ番組『クイズダービー』に出演する。1988年(昭和63年)からNHK教育テレビの『土曜倶楽部』にレギュラー出演し、「夏目房之介の講座」コーナーを担当。以降、NHKにたびたび出演するようになる。 漫画家1972年、作品「まんが」を雑誌『黒の手帖』に発表して漫画家デビュー[5]。 漫画家としては、谷岡ヤスジや土田よしこ、佐々木マキの影響下にシュールな作風のギャグ漫画を発表していた。また、『月刊OUT』において『鉄人28号』や『仮面ライダー』のその後をパロディ漫画として描いており、これが後の“マンガ作品の一部を模写し分析する”という手法に繋がっていく。 1981年(昭和56年)、『マンガ少年』で『スペースドリフターズ -宇宙の漂流者たち-』の連載を開始する。「夏目漱石の孫」という触れ込みであったが、掲載されたのは良質なSF作品だった。しかし掲載誌の休刊により、5回で連載終了した。1984年(昭和59年)には、恋愛をテーマにした短編集『粋なトラブル』を出版した。 漫画評論1992年(平成4年)、『手塚治虫はどこにいる』の上梓により漫画批評家としての評価を確立。ネームバリューを活かした多数の著作やテレビ出演によって、それまで一部の同人誌やマニア誌などで内輪話的に論じられてきた漫画評論のハードルを低くした。それと同時に、新たな漫画研究に対する指針を標榜した。しかし、本人はあくまでもコラムニストとしての活動であるとしており、研究自体は若手学者の論説を支持する程度にとどまる。 夏目の漫画評論は、それまでの漫画評論のように、作品のストーリー上のテーマを採り上げて分析するのではなく、「コマと描線」に着目して分析を行う手法を採っている。このように漫画の文法と呼べる表現技法を分析し、その複雑な内容を説き明かす「マンガ表現論」は、後に他の漫画批評家にも手法として取り入れられるようになった。その方法の集大成が、竹熊健太郎ほかのメンバーとプロジェクト・チームを作って制作した別冊宝島EX『マンガの読み方』(1995年)である。また、夏目はNHKの『NHK人間大学』で3ヶ月シリーズの「マンガはなぜ面白いのか その表現と文法」(1996年放送)を担当したが、「これを見て、初めてマンガの読み方を理解した」という高齢者からの感想が寄せられたという。 作品模写による引用・分析を得意とするが、この手法は書家の石川九楊から高く評されており、石川は書という芸術の分析評価方法との類似点を指摘している。漫画業界では、絵の引用は著作権者の許諾がいるという風潮が強いが、夏目は絵の引用は著作権法上、著作者の許諾は必要ないと主張した。夏目も当初は業界の慣例に従い許諾を得ていたが、1997年の『マンガと「戦争」』で無許諾の引用に踏み切った(ただし、引用の要件から外れると弁護士に指摘された絵はこの限りではない)。クレームをつけてきたところはあったが、夏目を訴えることはできなかった。なお、1992年発表の『手塚治虫はどこにいる』以降では、作品自体の絵を直接引用することが増えている。 小林よしのりが1997年に自著『新ゴーマニズム宣言』の絵を批判本に引用した上杉聰を東京地方裁判所に著作権法違反で訴えた際、上杉側は夏目の著書を引用が正当である証拠として提出した。最終的に、漫画の絵の引用は合法だが、コマの配列改変のみ違法との判決が出た(詳細は脱ゴーマニズム宣言事件の項を参照)。 NHK-BS2で1996年から2009年まで不定期に放送された『BSマンガ夜話』のレギュラーメンバーであり、番組中の作品を独自の切り口で解説する「夏目の目」のコーナーも担当した。 2008年4月、学習院大学の大学院に新設された人文科学研究科身体表象文化学専攻の教授に就任[6]。2021年退任[7]。このほか、花園大学の文学部創造表現学科にて客員教授を務めるとともに[8]、京都大学の非常勤講師を務めている。 人物
親族夏目の姓を名乗ってメディア出演するのは房之介だけなので、漱石関連の問い合わせは全て自分のところに来るといい、これが大変だと話している。長男の長男という、昔風にいえば嫡孫であるが、長女の筆子の血を引く2人の従姉の方がかなり年長である。なお、著作権が切れているので、漱石作品に関しての収入はない。 長男はフリーで編集者やライターをしている夏目倫之介(なつめ りんのすけ、本名:夏目麟之介、1974年 - )[11]。
受賞著書
共編著
出演
脚注注釈出典
関連項目
外部リンク
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