宇都宮競馬場
宇都宮競馬場(うつのみやけいばじょう)は栃木県宇都宮市西川田二丁目にあった地方競馬の競馬場。廃止時点では栃木県の主催による競馬が開催され、廃止直前までD-Netに加盟していた。2001年度までは宇都宮市が主催者となる競馬も実施されていた。 概要1933年(昭和8年)に起工し、同年11月に完成、同年12月に開幕した。しかし年間の開催は僅か2回で、1回の日数は4日に限られた。 当初の主催は栃木県馬区畜産組合連合会のみに開催権があり、1948年(昭和23年)の競馬法公布により主催者が国及地方公共団体に限られると、1955年(昭和30年)に宇都宮市へ合併されるまでは所在地が姿川村であったため、姿川村も宇都宮競馬場所在村として開催権を得て村営競馬も施行していた。ただし村営競馬といっても一切を県に委託し、村はその収益を受けることだけで事足りた。 コースは1周がダート1200メートルの右回りで、第4コーナーからゴールまでの直線の距離は200メートル[1]と比較的コンパクトなコースだった。レース施行距離としては800m、1300m、1400m、1500m、1600m、1900m、2000m、2600m[1]と短〜中距離の設定が多かった。 厩舎は敷地内に8厩舎、周辺に27厩舎ほどと周辺に点在していたことから、調教やレース出走の前後には馬が厩務員に引かれて公道を歩く光景も見られた。地方競馬開始時の馬場は、国土地理院ホームページ「地図・空中写真閲覧サービス」の航空写真 (USA-R389-128)で確認できる。これらの厩舎が建てられたのは1971年(昭和46年)頃だが、当時の周辺住民は井戸水を飲料水としていたので、馬の糞尿や洗馬の水、寝ワラの乾燥の時の悪臭などで井戸水が汚染されるのを恐れ、厩舎建設には反対した。その結果、周辺の住宅地に上下水道が整備され、合わせて道路の舗装、厩舎も消毒されるようになった。 北関東菊花賞を制し、最初で最後の北関東三冠馬となったフジエスミリオーネは宇都宮所属だった。またベラミロードなど全国レベルのレースでの活躍馬も輩出していたが、1953年(昭和27年)をピークに売上は減少していき、1993年(平成5年)以降は赤字経営が続いて売り上げ好転の兆しも見られなくなっていた。 また宇都宮と共に北関東ブロックを構成していた足利競馬場と高崎競馬場が経営難・自治体財政などの問題から相次いで廃止されると、競馬場はもとより宇都宮と足利の厩舎を抱えた1場単独での興行は極めて困難となっていった。さらに競馬事業関係の基金の払底という悪条件までもが重なったため、宇都宮競馬場も廃止のやむなきに至り、2005年(平成17年)3月14日の平成16年度とちぎ大賞典が最後のレースとなった(勝ち馬はフジエスミリオーネ)[2]。 開催廃止後は同年12月まで南関東公営競馬の場外発売が行われ、2006年(平成18年)3月末をもって閉場、廃止となった。最後の騎手会長は小野三夫だった。最後まで所属していた246名の調教師・騎手・厩務員は他地区へ異動した一部を除いて引退・廃業し、所属していた350頭の競走馬も廃馬の運命をたどった。これにより北関東の地方競馬は約80年続いた歴史に幕が下ろされることになり、栃木県内からは勝馬投票券の発売も終了となった。場外勝馬投票券発売所が無く、長らく宇都宮と足利での場間場外のみが行われていたという事情もあるが、平成期の競馬場廃止により関連施設も含めて都道府県単位で競馬場の廃場と同時に馬券発売が全廃となったのは全国を見渡しても栃木県のみである[注 1]。 1990年代、栃木県は壬生町内に県営馬事公苑を含む新競馬場計画を立ち上げ、土地買収と厩舎地区の先行整備を開始したものの、1990年代末になると景気低迷と競馬開催の急激な不振から一気に競馬の存続自体の雲行きが怪しくなり、程なく計画は休止状態となり、県営馬事公苑の計画自体も含めて最終的に頓挫した。 廃止後厩舎の跡地や周辺に点在した競馬場来場者向けの民間駐車場の一部は関東自動車の折り返し場(西川田東バス停)やアパート用地、宗教施設等へと転用された。競馬場の跡地は、第77回国民体育大会(2022年〈令和4年〉開催)に向けた「総合スポーツゾーン」整備の一環として陸上競技場兼球技場「カンセキスタジアムとちぎ」が建設された。 スタジアム建設後も競馬場特有の楕円形の敷地ははっきりと確認できるほか、栃木県道2号宇都宮栃木線の「競馬場南入口」交差点、そこから東に分岐し競馬場跡地前に至る「競馬場通り」、競馬場跡地前に設置された関東自動車(関東バス)の「競馬場通り」停留所など、現在でも随所にその名残を見ることができる。 発売していた馬券の種類
○…発売 ×…発売なし
重賞競走
主な活躍馬
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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