小栗孝三郎
小栗 孝三郎(おぐり こうざぶろう、1868年9月19日(慶応4年8月4日)- 1944年(昭和19年)10月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 経歴大聖寺藩士・小栗勇馬(禄高:200石[1])の三男として生まれる。共立学校を経て、1889年に海軍兵学校(15期生)を卒業し、1890年に少尉任官。1893年、海軍大学校(丙号学生)を卒業し「松島」乗組、以後、佐世保海兵団分隊長、装甲艦「比叡(初代)」分隊長、西海艦隊参謀、砲艦「磐城」航海長、「天龍」航海長、常備艦隊参謀などを経て、1901年、海軍大学校(将校科甲種第2期)を卒業し、海軍省副官兼海相秘書官となり山本権兵衛大臣に仕えた。 1903年から翌年までイギリスに駐在し、英海軍大学校戦術科に学び、潜水艇に興味を持つ。帰国後、軍令部参謀となるが、潜水艇研究を願い出て認められ、1904年6月から11月まで米英出張。アメリカに発注した潜水艇の工事検分、完成後に分解し日本へ積み出し、英国で潜水艇の航海体験などをして帰国。 その後、潜水艇の横須賀工廠艤装委員、第1潜水艇隊司令を歴任。1906年にイギリスに出張し、購入を条件に最新式の潜水艇を検分し帰国するが、艦政本部がその購入を認めず、その責任を取って休職。しかし、山本海軍大臣が5隻購入を決定し現役復帰を決意。以後、水雷母艦「韓崎」艦長、通報艦「鈴谷(初代)」艦長、水路部測器科長、海軍省副官、「香取」艦長、艦政本部第1部長などを歴任し、1913年、海軍少将となり、イギリス大使館付武官、軍務局長、第6戦隊司令官、第1特務艦隊司令官、呉工廠長、将官会議議員、第3艦隊長官を歴任。1921年、東宮訪欧に随行。 さらに、舞鶴鎮守府長官、将官会議議員を経て、1923年に海軍大将、1938年に退役した。 年譜
栄典・授章・授賞
脚注
参考文献 |